自己中心性に対する考察

食せねば生きることが出来ない肉体の自己保存欲を満たす為に
人間は常に額に汗して労働することを余儀なくされてきました


それは形あるものは放っておくと崩壊してしまうという
自然の力に対抗する人間の運命のようなものでした


イエスは「人はパンのみにいきるにあらず」と言いましたが
心の世界が成熟していない時代においてはパンを得ることは
生死をかけた闘いだったのです


今でも貧困と略奪がテロの温床となるのは
貧富の差以上に生きぬくための生存本能に依るからです


この肉体の本能的な自己中心性を堕落論では
血統的な堕落の動機として定義するのですが
ではこの自己中心性と言う性質に対して
徹底的に追求したことがあるのでしょうか?


宗教はひたすら自己否定を説き自己中心性を乗り越えるためには
教祖の指導に従うことが必要不可欠だと教えます


誰かのコトバに従えば自己中心性がなくなるのでしょうか?
また教えられた教義を守れば自己否定ができたことになるのでしょうか?
信仰によって見えないものに帰依することで自己否定は完成するのでしょうか?
自我を抑圧し否定することは出来ても
自我は無意識の中に隠れるだけなのです


それが証拠に謙遜な信仰者でも状況が変われば
自己中心性が自分でも驚くように突然
無意識の暗闇の中から現れてくるからです


仏教では自我は固定化された実体としてあるのではなく
無自性であり本質のない無我だというのです
だから空の概念はあっても神と言う概念はないのです


しかしここが仏教の微妙なところです
禅僧たちはコトバの世界に信頼を置いていないだけであって
「空即是色」と言うように何もないことが在ることでもあるという
摩訶不思議な表現をするのです


彼等は言葉による二元論には限界があることを知悉しているので
コトバで対象化する思考の癖を乗り超える為に
悟りという直接体験の中に本質を求めたのです


仏教的思考では外界にある存在物だけではなく
自己の思いや感情も含めて対象化されたものは全て自分ではないといい
そのことに気が付き主客を乗り越える境地を体得しようとするのです


対象を鏡として浮かび上がる自己の内面を見つめている意識の状態は
コトバではなかなか説明できません
なぜなら一旦コトバが介在すれば人間はその体験さえも
コトバで概念化し概念が対象となってしまうからです


心身脱落


その後は
風のように吹かれ
水の様に流れ
空気のようにあるがままの状態
山は山であって山でない


隻手の音・・・


という奇妙な禅問答になるのです


天使長の自己中心性が肉の本能に根差していると見る限り
生存の為の闘いには終わりがありません
自己を否定するものは羊の従順さは手に入れることが出来ても
肉の本能を超えて「あってあるもの」に出会うことは困難なのです


自己は否定するものではなく自己が対象を見る時
その関係性の中に生まれる心の状態に気づいていれば
主体も対象もなく「今ここ」という存在の動きに定着できる
本然の意識に目覚めることが出来るのです


本然の意識とは限定された自己中心性ではなく全体意識のことなのです


原理はその意識状態を男女の中における真の愛によって可能だとしたのです
愛の中では主客が互いの中に投入されるので
自分がいなくなり在るのは愛だけとなるからです
意識の全体性を実現しようとした原理はまさに愛の教義そのものです


愛は自己を否定しません自己を限りなく肯定できるのは
対象の中に投入する意識は自己中心的ではないからです


愛における本然の状態はまさに仏教でいう無我の境地なのです


「一塵の曇りなくあらゆるものを映す無限大の意識の鏡
この鏡の前に来るものは美しいもの、醜いものも、ただ
全てをあるがままに映している状態だけがある。
映されたものは変化し常に流転しながら留まることもなく
然るに鏡は只淡々と何も変わらずに映すだけなのだ」

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