「み言葉実体」から「実体み言葉」へ

「神様において新しい朝を迎える一番の栄光の時とは
肉体をまとうことが出来る時です」
祝福家庭と理想天国
「本来、心と体は切り離そうにも切り離すことのできない一つのものでした
人間の心は神様の心であり、人間の身体はその心を入れる器でした」

真の人間1章・2・33


日常生活は朝起きると同時に
主体である私が対象世界を見つめるところから始まります


身体の内側から外側を観るのですが
この観ると言う行為を通して対象に対する印象が心に想起されます
神の見えない心情圏が私の内で共鳴運動を始めるのです


共鳴とはその心情圏を体験する私と
体験させようとする神との共同作業のことです


朝方まだ薄暗い時間に浜に出て
地平線の彼方に目をやると
夜明け前の空は微妙な光に彩られます
その色彩の変化はいつ見ても感動的です


この感動は観るという行為によって対象から齎されます
主体と対象が授受作用することによって
見えない心情が忽然と現れるからです
この動きのことを四位基台と呼びました


そして創造原理ではこの心情の主体を神と呼んでいます


ところが人間は罪人だと教えられ
堕落した人間だと思い込むと自分の心は汚れている
心の中で思い感じることは神から来る心情ではないと思い
神に繋がる唯一の心情の門を閉じてしまうのです


それが神を自分以外に求め
自分の外に理想の崇拝対象を思い浮かべることになるのです


冒頭の言葉は無形の神は人間を通して現れると言う
実に直接的な表現です


食べることも飲むことも
観ることも触れることも
日常生活の一瞬一瞬は
主体と対象の授受作用の原理です


この動的運動を通して思いや情が誰にでも自然に湧いてきます
その心の動きをいかに神と共鳴できるかというところに
人間の責任分担である成長期間があるのです


幼児の成長は他者の存在に気が付いていく心の過程だと
心理学者のピアジェは説明しています
産まれたばかりの子供は肉体の持つ生存本能はあっても
コトバが無いので自他の区別が明確にならないからです
人間の責任分担を果たして神の心情につながるとは
コトバを含めて他者性に目覚めることだと思っています


原理が何故執拗に家庭の重要性を強調するのかと言えば
その他者性を学ぶ家庭こそが幼児の霊性に決定的な影響を与えるからでしょう


宗教の殆どは愛や慈悲の心が最も高貴な精神性だと教えます
本来はごく自然に当たり前のように人間は家庭の中で
その精神性を受け継ぐことが出来たはずです


文先生は愛の定義を他者に対する完全投入と言うコトバで表現しました
その理由は神がそうだったからだというのです


自分の全てを相対に投入し投入したことも忘れるほどに
相手の為に尽くすことによって対象から返ってくる喜びの実感こそが
神が人間に与えたかったものだとすれば
人間も同じように互いが完全に与え尽くすことによって
その心情圏を体験できると言うことになります


原理の四位基台思想とは日々の生活の中に神の心情を見いだすことです
関係を通して湧いてくる思いや情が神と同質の情感だと確信できるようになれば
神は信じる対象から心情で感じて知る実存的存在となります


「戒め」で象徴されたみ言を学ぶ期間が
「み言実体」としての間接主管圏ならば
「実体み言」の状態は実体となった神を着た直接主管圏のこととなり
その時に初めて神は天上にいる神から
あなたを通して日々共鳴しながら生きる神となるのです


愛が自分のものではなく主体と対象の授受作用によって現れるように
存在の場は常に偏在する心情圏が覆っていて、その全ての無形の心情圏の中で
人間は唯一実体で神を顕す器なのです


「霊界の空気は愛でできている」と文先生がいうのは
物的な空気の成分が体の内にも外にも自由自在に流れるように
心情も常に主体と対象との関係の間に流れているということです


宇宙創造の完結は自分自身の中で起こることです
そしてその環境圏が家庭だというのは
家族の中では愛が自由自在に流れているからでしょう
そして心情圏が無形なのは誰もが共有できるからです


まさに
「人間の心は神様の心であり、人間の身体はその心を入れる器だった」のです

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