蕩減思考と祝福家庭

原理講論は大別すれば創造原理、堕落論そして復帰原理に分かれます
第一の原理では人間の本来在るべき姿を説明し、第二は堕落した人間の現実を
そして第三の復帰原理は堕落した状態から
如何にして本然の姿に戻っていくのかを聖書を基に分析しています


講論の最後に再臨論があるのは復帰は再臨主を迎える以外に
方法はないというのが教義の骨子となるからです


再臨主を迎えるために集まった信徒たちは再臨主と共に
復帰の道を歩むことが使命だと教えられました


そして重要なことはその為には蕩減条件を払わなければ
元に戻れないと言うことでした
この考え方を私は蕩減思考と呼んでいます


蕩減思考とは創造本然の人間には必要のないもので
堕落した人間だけに必要とされ
広義においては宗教者の自己否定や苦行のことでもあります


神の似姿に創造された人間が自分自身を否定するという
この矛盾した状態をキリスト教では堕落
仏教では煩悩を持った人間として教義化したのです


創世記の一章には「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」と祝福された
人間本性の開花した喜びを謳っています
ところが三章に
「とって食べるな、これに触れるな、死んではいけないから」という
行動を制限する厳しい否定的な禁句が「戒め」として記載されているのは
「取って食べた」ことによって
本然の祝福を与えようとした神の創造目的は未完成となったという解釈でした


生の賛歌を共に喜ぶこともなく生を否定し
蕩減を背負う真逆の人生を歩むことになった人間
これが統一食口の蕩減思考の原点なのです


蕩減人生の使命は統一運動においてはメシアを迎え
神の心情を復帰し、囚われの身となっている神を解放することでしたが
現実的には上からの命令に従属する
アベル信仰を徹底する自己否定集団の形成だったのです


それもこれも全ては元の状態である祝福を受けるためのプロセスでした


ところがメシアを迎え本然の祝福を受けても
この蕩減思考だけは依然として無くならなかったのです


確かに理想の世界は現実にはどこにも見ることは出来ていません
しかし少なくとも祝福された家庭の中では
その兆しが表れてこなければ教義の正統性を証明できるものがなくなってしまうのです
つまり祝福を受けて生まれた子供たちは本然の実となっていなければならないからです
ところが聞こえてくる二世・三世の話は希望と言うより失望の方が多いというのは
一体どうしたことなのでしょうか?


祝福を受けて血統を転換して生まれた無原罪の子供たちは
神の本然の理想を体現していないのでしょうか?


明けても暮れても経済復帰に捧げた一世の涙ぐましい献身は
子供を顧みる暇もないほどの非情な世界でした
それを蕩減と言うコトバで正当化し、家庭を顧みずとも
神が直接、面倒見てくれるという摩訶不思議な信仰観を植え付けられて
一日中走り続けたのです


この一世の信仰観は骨の髄まで蕩減思考が染みついているのです
蕩減思考とは自分に直接働く神ではなく
アベルを通して、真の父母を通して顕れる神なのです


その蕩減思考を持った一世たちはどのような教育を子供たちにしたのでしょうか?


一つの例です
子供が外部との接触を嫌うようになり極度の自閉症になった家族です
親は小さい時から教会活動に明け暮れ
まさに神に面倒見てもらえる信仰観だったと言います


子供に対しては堕落の原因となったことを無言のうちに徹底したのか
男女交際も許さず、ましてや肉的欲望に関しては「触れてはならない」
と鉄の錠をかけ絶対否定の禁止条項を強調した教育だったというのです


神が与えようとした本然の祝福は「ふえよ」という性の肯定でした
しかし自分たちが教えられた性への極度の恐怖を
子供たちにも同じように教えたのです


性は果実と同様に実が熟す前は誰も食べようという意識さえ湧いてきません
しかし神の創造性を引き継いだ人間は
肉体に備わった創造性である性エネルギーが
年齢と共に成長してくることは必然のことなのです


ところが蕩減思考を身に付けた親たちは子供に厳しい恐怖と否定を
植え付けるだけだったのです


親が子供に対する教育で大切なことは
欲求に対して子供が隠さずにその情感を肯定的に見つめさせ
正しく指導し育てていくことではないのでしょうか


祝福と言う本然の喜びも親が愛の決定権を持つようになると
子供はどうなるのでしょうか?
仮に親の薦めで決められたパートナーを得たとしても
性格も趣味も好みも違えば直ぐには愛情が湧いてこないのは当然のことです
自分の意志ではないマッチングが壊れていくのは
愛に対する責任感が希薄だからです


蕩減祝福の一世は其れで良くても同じような信仰観を
二世に適応すべきなのでしょうか?


そのことは真の家庭の子女であっても同じことでした
不倫や離婚を始めとして家庭内での問題が噴出したのは
親が子供の愛の相対を決める指名結婚だったからです


彼らが離婚して新たに自分の意志で相手を探し
再祝福を受けた子女様達は本人同士の愛情が中心となって結婚したが故に
今では幸せだというのです


「祭物「「供え物には口がない」信じて滅びよ」「絶対服従」
これらの文言は全て蕩減時代のものです


神が本来創造した本然の在り方は愛の情感が先に在って
それを原理によって成長させることではなかったのでしょうか?


好きな人が出来たら家族に紹介し
家族はその二人が本然の愛の基準である
「互いを自分以上に大切に思える」ようになれば
父母が祝福の準備をしてあげるべきなのです


この運動が伸びない原因の一つは
全てが蕩減思考の中で内向き志向になっているからだと思っています


二世は二世同士、三世は三世同士
この論法で行けばこの組織に新たに入ってこようとする若者たちは
血統圏と言う高い壁のような階級組織と闘う羽目になります


無言のうちに造られている見えない位階制
それが血統による序列です


血統の序列とは神の心情の相続というより
誰がよりメシア家庭とより近くなり出来れば親族になれるのか
或いは祝福双の古い韓国の幹部の家庭と血縁関係を結ぶことが出来るのか
という血統によるハイラルキーのことです


どれ程、実力があっても血統的優劣がこの組織の序列となっている限り
祝福の「生めよ、ふえよ」の普遍性は
ある限られた者たちだけの血統圏の話に限定されてしまいます


一体、救いとは何だったのでしょうか?


数字のトリックであったとしても既に世界には何億双の祝福家庭がいるそうですが
その詳細を把握し祝福家庭の実態を誰が本当に把握しているのでしょうか?


ましてや社会結婚をした二世や三世たちは
教会とは一切関わりたくないという子供たちが殆どです


生命の復活を教えた祝福がこんなにも存外に扱われていることは驚くべきことです


また祝福の権能も時と共に変化し
今では分裂した派閥がそれぞれの祝福を行い
我が陣営こそが正統祝福だと主張しています
主張するのは勝手でしょうが、では祝福を受けたことによって
この世界が大きな影響を受け、人間の霊性が成長し
祝福者たちの人格が変わったのでしょうか?


晩年の文師は
「蕩減時代が終わったので宗教もメシアもいらない時代が来た」
と言われました


宗教が教えた神はいつも天上のどこかにいて
我々を見守り、祈りの中で出会う神でした


神が心情の神であるならばその神はどこに現れるのでしょうか?


愛の心情が形となって表れたものが被造世界であり
人間はその愛の実体的現れだと原理講論にははっきりと書かれています


二性性相の神とは空想上の概念ではなく
生きた実体で感じる神であるはずです
祝福はそれを霊肉を持って実体で体験することだったのではなかったのでしょうか?


実体を通して体験した愛の心情の喜びが
神と関係なければどこにも神をみいだすことはできません


「神はアダムとエバを創造なさった後、生育せよ、繁殖せよ、万物世界を主管せよと言われたのである。この三大祝福のみ言葉に従って、人間が神の国、即ち天国を造って喜ぶとき、神もそれをご覧になって、喜ぶことであった」


「それでは、神の三大祝福は、如何にして完成するのであろうか。
それは創造の根本基台である四位基台が成就された基盤の上でのみ
成就されるのである。・・・・それゆえに人間を中心とする被造世界が存在する目的は
神を喜ばせることであった」原理講論・創造目的


人間が愛の中で喜ぶ時、神が共に共鳴しているというのが創造原理の神なのです
その神を実感することなしにどれ程
神を中心とした家庭を作りましょうと唱えても
自分の心情が神と共鳴していることに確信が持てなければ只の教条主義者です


神が生きているのはそれぞれの心情の中なのです
そしてその中心が愛なのです


自分が肉的五感を通して知覚することは霊的に知覚していることです
霊は主体であり肉は対象だからです
知情意と言う霊的要素が生きた実在だと感知できる者は
霊界の実相が分かる人です


肉体を含めた現象世界は儚く消えて行きます
それは実在していると思っているだけで
真に実在するものは見えない心情なのです


見えない心情圏が実体化したものが被造世界であり
実体化された対象物との関係を通して感じる内的な感性の中に
神は常に現れているのです


その神は家庭を通して愛の心情を現す時代になったので
宗教組織は終わり家庭の連合体になったというのです
家庭連合と言う最終的な実りを反故にしてしまった
組織はどこに向かって何をしようとしているのでしょうか?


新しい名称である「天の父母様聖会」が真の父母を神格化して
崇拝する限り蕩減思考は継続し
自分の中に生きる神は決して分からないことでしょう


祝福とは本然の愛の喜びの心情を家庭の中で感じることなのです
そしてその基準を示した存在を真の父母と呼び
その先例に従ってそれぞれが真の父母になることが救いの完結なのです

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