知的認識を超えた世界

真理に対する人間の探究心は結局、自己存在の根拠に対する探究です


宗教も哲学も科学も人間の存在の根拠がどこからきて
その根源とどのような関係にあるのかを一貫して追求してきました


その根源を求める為の人間の武具の一つが知的認識です
認識には言葉が介在しますから真理を理解するとは言葉の意味理解でもあるのです


では言葉は真理をどのようにして認識できるのでしょうか?
仏教、特に禅の教えでは否なのです
言葉による根源への追求には言葉自体に限界があるからだというのです


例えば霊界の実相を考えてみましょう
霊界は時間がない、永遠である、思ったことが瞬時に実現する
こう言う言葉の曖昧としたイメージは誰もが持つことが出来ますが
この言葉やイメージ自体が時間観念なのです


実体がない夢の世界でも確かにイメージが現れます
現れたイメージにはあくまでも時間の流れがあるので
夢の中でも会話が成り立つのです
しかしその夢も目覚めた意識の中で、あなたがいま思い出しているのです
夢自体も時間のうちにある認識による経験なのです


人間は死後永遠の霊界で生きるようになる
これが原理の究極的な教えの一つです


その霊界では思ったことが即座に起こるというのですが
即座とは時間がないことなのです


永遠とは無時間の概念です
では永遠である時間のない霊的状態とはどういう状態なのでしょうか?


霊人体になって個々が住んでいる霊界
時間も空間もないと言いながら何かがある世界
この世界が本当に実在するとしたら
それを一体どのようにして私たちは認識できるのでしょうか?


これが二元論的思考の限界であることは明白です


哲学史や宗教史で徹底的に論議され人間の知的認識だけでは
真理そのものを認識することには限界があると言うことです
統一原理もこの世界を二元論的に説明した理論なのです
よってほとんどの人間にとっては真理かどうかというより
死後の世界や霊界は認識するものではなく信じることしか方法がないのです


その信仰に救済願望が加わると天国に行くことが
人生の希望となりその逆は地獄という恐怖になるのです
しかも天国も地獄も見たものは誰もいないのにです


では改めて真理とは一体何をいうのでしょうか?
言葉の認識力で理解できないものが人間存在だとすれば
人間は虚無の深淵を前に力なく立ち続ける哀れな存在なのでしょうか?


今も執拗に論議されていることは文先生のミコトバの知的解釈論争です
しかし解釈には終わりがないのです
何故なら解釈の主体が言語によって限定された自分だからです


視点を変えましょう
文先生は救済の本質が愛にあることを説かれました
偽りの愛によって堕落した人間を真の愛によって
本然の人間存在に復帰していく・・・この愛
宇宙の統一原理の本質が愛である事を強調されたのは何故でしょうか?


それは人間の存在の根源が愛の心情だと確信したからなのです
愛は知的認識ではありません
愛を知るとは頭で知るのではなくあえて言えば実存的な体験なのです


善悪を知るの木とは善悪が知的認識であることは言うまでもありません
しかし原理の説明は知的認識の限界を超えて善と悪を実存的に説明したのです
それを堕落と言ったのです
悪とは知的認識ではなく愛を自己を中心として実存的に
誤って体験したことを指摘しているのです
善も同じように知的認識ではなく愛の他者性を中心とする実存的体験でなければなりません


本然の愛とは愛が相対から来る愛の相互的他者性のことです
その相互他者性に目覚める時が初愛の時期だというのです
相対関係における相互の心情が互いの愛の根拠に対して
自分をどれ程完全投入できるかどうかが愛の基準だと言うのです


その基準に到達した時が祝福の根拠となり
男女が実体的に結婚することによって
霊肉の実体的実存感覚を体験できるので
それが神の顕現、臨在することだと言うのです


愛が喜びであり、感動であり、全てになるのは
その実存的感覚そのものが神だからです
無形なる神の心情を人間は実体で実存感覚として知ることができると言う
秘密がそこに在ったのです


存在の根拠とは知的な認識だけではなく
愛の実存的な実体験のことなのです
それは言葉さえ介在できないまさに男女が一体となる
二性性相の中和体の世界なのです


言葉の二元論を超えた一元論の世界はそれ故
愛によってしか到達できない
まさに「あってあるものの」世界なのです
自己存在の根拠となる真理を知るとは
知的認識を超えた霊肉を通しての実存体験を通して
愛そのものになるということなのです

×

非ログインユーザーとして返信する