第四次アダム圏とは 私的見解

「宗教の目的は独りのアダムを立たせることでした
それは神の似姿として創造したアダムが神の実体となることが出来なかったが故
歴史を通してアダム一人を求めてきたというのです」文鮮明


釈迦の悟りもムハンマドの教えも歴史上の偉大な宗教家も哲学者も
彼等の修行の目的は敢えて言えば神のような人間になることでした
原理の驚くべき主張は第二アダムと言われるイエス様の目的は
神の理想を完成するためには女性が必要だと断言したことです


神の全体性は男女の心情によってしか完成しないと言う原理が
メシアの使命は女性の復帰だったという考えに繋がるからです


宗教の殆どは個の内面に於ける悟りや神的体験を強調しますが
原理の最大の福音は再臨の目的が女性を復帰した家庭の完成にあると言うことでした
家庭こそが神の全体的心情の相続の場だと言うのです


しかしそれを実現するためには
讒訴と言う壁を乗り越えなければならないと教え
そのための方策が蕩減でした
蕩減の原則は時にこの世のモラルや道徳では理解できない行為となり
摂理に選ばれた女性たちの奇怪な行動は其れを顕しています
タマルが血統残すために娼婦に身を隠して義理の父と関係を持ち
マリアが婚約者ヨセフがいるにも拘らず姉嫁の夫であるザカリアと関係を持たなければ
復帰の為の蕩減条件を満たすことが出来ないなどとは
この世の誰一人として理解することは出来なかったはずです


これらは本然の神の心情圏が閉ざされてしまい
霧のような帳で覆われてしまった讒訴圏を切り開くための霊的なこと故
普通の感性を持つ人間には理解しがたいことだったのです


閉ざされた心情圏の壁を切り裂く闘いは
まさに複雑で混沌としていたのでしょう
その霊的な心情圏に道をつける闘いの一端が
「創立前の教会史」に述べられています
その為の方策が奪われたから奪い取ると言う逆の経路を通る
と言う思想に繋がるのですがそのことも多くの誤解も生みました
サタンがそうしたので神も同じことをすれば神自体がサタンと同じ行動を
取るように見えるからです
取られたから自分が取り返すだけならそこには蕩減はありません


文師のいう蕩減に於ける逆の経路とは
取り返すためには何よりも蕩減条件を自分が果たさなければ
元に戻すことが出来ないと言う原理を知っていたのです


文師が女性を復帰する為に奪い返す逆の経路の背後に讒訴圏を解放する
心情の蕩減条件が充たされなければ復帰することが出来ないことが
次の言葉にも表れています


「この女性が真に神を中心とした女性として立つためには、神への忠誠の故に
夫と子供、全家族が一度ならず二度三度と、三回以上彼女を殺そうとする試練を通過しなければならないと言うのです。その女性は夫と子供の憎悪の対象となる心情的十字架を
耐え忍び、ナイフで体を切られたりして迫害されながらも、その最高の迫害に勝利しない限り、絶対的神中心の男性の花嫁の立場に立つことは出来ないのです。」


「韓国に神の摂理の中心となる代表的な女性が顕れなければなりません・・・
そしてある女性が選ばれ、・・・時には神のようになり時にはサタンのように振る舞った
その女性に対して『僕の僕』の立場からサタンが付け入るスキのない心情復帰の闘争をしたと言うのです。何故なら心情圏に侵入した人間の恨みや怨讐を除去するには
まさにどこから手を付けてよいのかわからないほど縺れていて、それを解きほぐす唯一の方法が蕩減条件を立てることだったからです」


ここに書かれていることは
蕩減とは単純に逆の経路から奪ってきたのではなく
そこにはそれを超える涙と血の滲むような実体的な
心情の蕩減が払われなければならなかったということです


堕落した女性を屈服させ復帰した心情の勝利圏の上に与えられたものが
祝福なら祝福を受けた者もサタンの心情的血統から
神の血統に繋がるという接ぎ木思想を信じるだけではなく
本来は同じ心情の十字架を相続するべきなのです


神の愛がアダムを通してエバに流れると言う原則が神の原理であるが故
復帰はその逆を蕩減しながら長成期の完成級までは
母の愛によって産みかえられ成長していく期間になると言います


祝福とは復帰され生まれ変わったアダムが本然の愛を持って
エバの立場にある女性の復帰を実現することでもあったからです
対象の為に仕えながら心情の全てを完全投入することによって
生まれ変わったアダムは徹底した僕の僕から這い上がってエバを愛しきったと言う
蕩減条件を満たさなければならないのです


象徴的な三日儀式でエバが完全に復帰されるのではなく
アダムが神の立場に立ってエバを自分の家庭内で実体的に尽くし
愛することによって女性を復帰することが
本来の祝福の意義、霊肉の救済なのです
それは神の愛の全体性が男性と女性の一体化の中にあるからです


「愛は与えて与えたことも忘れる程対象に対して全力投入をすること」


これがアダムのエバを再創造する原理的な真の父母に至る道
即ち責任分担だということです
自分の実体的な相対者に対してこれが出来た人こそが
第四次アダム圏に入る人と呼ばれるのでしょう


相対を自分以上に大切にし、相対の為にすべてを捧げることが出来た
本来のアダムとしての実体の基準がここにあるからです


女性は対象的存在であるが故に実体的に愛されることによって再創造されるのです
文先生を慕うだけではクリスチャンがイエスを慕うのと同じ霊的救いの次元です
文先生の啓示は祝福家庭の男性が第四次アダムとして
神の愛の伝統を何よりも自分の相対者に注ぐことを教えたのです


神の愛によって愛された女性は愛してくれた夫に対して
信頼と尊敬が自然に溢れ、家庭内における絶対信仰、絶対服従、絶対愛が
夫婦の中に定着するのです
これこそが宗教の終焉の意味なのです


どれ程一人で修行を重ねて神と一体となったと悟っても
神の心情の全体性は実体のエバがいなければ成り立たないということです


実体の家庭の中で真の愛で愛し愛されない限り
神の愛は霊的次元で終わってしまうのでそれを養子の文化と呼んだのでしょう
家庭とは自分の相対者に対して神の愛を実践する唯一の実体的な場所なのです
それが出来た家庭こそが本当に祝福された家庭なのです


蕩減の時代は確かに過酷な世界でした
誰もが通りたくない異常で不必要な世界です
しかし其の時代も終わり後天時代がきたということは
誰もがアダムの位置に立って神が愛するように
相対者を愛することによって理想の家庭を築くことが出来る時代圏に入ったということです


今はまだ過渡期なので宗教時代に戻ろうとする動きや
特定の人間を崇拝するようなことが起こるのでしょうが
新しい心情圏の到来はもはや時間の問題です


第四次アダムとは祝福を実体で完成した男性のことです
真の家庭の中にも漸くその種が成長し実体で証明できる時代が始まったと聞きます
その意味では真の家庭の先例に従って全ての祝福家庭が
その道を行かなければならないと言う考えも頷けますが
先例に従うとはその人物に従属すると言うことではなく
それぞれがその如くになると言うことです


第四次アダム圏とは愛の秩序が神から始まって
アダムを通してエバがその愛を受ければ
その愛の中では男女の差異がなくなるので
まさに実体の神の似姿になると言うことです
神と一体となるとは神の似姿が男女だと言うことだからです
どんなに修行をしても神の実体となるには相対が必要だったのです


「愛を与えて与えたことさえ忘れる」とは
対象に価値を置くことのできた崇高なる人間への称号なのです
そのことを文師は「あなた方もメシアになりなさい」
と言ったのでしょう

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