カラマーゾフの兄弟-自己主管とは

「天宙主管の前に自己主管をすること
自己を主管してこそ完成への道を進むことが出来るのです」


主管性ということを考えながらドフトエフスキーのカラマーゾフの兄弟を
再び読み返して見ると改めてこの意味が問われているように思えたのです


カラマーゾフという家族を中心にしたこの作品は
人間の怒り、憎悪、虚しさ、悲しみ
そして残虐さをこれでもかと言うほどに描いています


カラマーゾフの三人兄弟の長男ドミトリーは父親譲りの強欲さを持ち、
知的な学歴を持つ次男のイアンはこの世の不条理を主張する無神論者
一番下のアリョーシャはロシア正教の重鎮であるゾシマ長老を尊敬する信仰者と
まさに貪欲、疑念、嫉妬、憎悪、理性、正直、優しさ、謙遜、信仰…
ありとあらゆる人間の性向が描かれています


当時のロシアの社会的矛盾や混乱が人間の内的反映であるかのように描いたこの作品は
人間の苦悩が凝縮するまさに世界一級の物語になっています


クライマックスは有名なイアンの創作物語に出てくる再臨のイエスとの
会話となるのですが若い時に読んだ時はキリストの愛は全てを許し
あらゆる悪を超えるのだとイエスの偉大さを思ったのですが
今回は全く違ってイエスの無力さと哀しみ
そしてイエスの強さの秘密がどこにあるのかを感じたのです


キリスト教はイエスを神と同等視しますから
完全なる絶対的存在だと信じていますが
彼はあくまでも神性をもった人間だったと言うのが原理観です


イアンの創作物語は有名な三大試練を指摘して
ここに人間の本質が現れているというのです


一番目の試練は
「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」
確かに石をパンに変えれば人間の生存競争は無くなります
物質にひれ伏す人間の弱さをイエスは「人はパンのみに生きるにあらず、神の口からでる一つ一つの言で生きるものである」と精神の崇高さを強調するも
そんな人間は殆どいないというのが大審問官の返答です


二番目の試練は
「もしあなたが神の子であるなら下へ飛び降りてごらんなさい」
奇跡を信じたい堕落した人間に戻れと言う試練に対して
「神を試してはならない」というものの、此処でも
大審問官は人間は弱く、いつも何処か力ある権威の前に縋りたいのだというのです


三番目は
「もしあなたがひれ伏して私を拝むなら、これらのものを皆あなたに上げましょう」
この世の富や栄光を誰もが求めているという大審問官の問いに
「主なるあなたの神を拝し、ただ神のみに仕えよ」と突き返すのです
人間はそんなにも高尚ではないという大審問官に対して
再臨したイエスは人間を本当に信頼していたのでしょうか?


カラマーゾフの血の中に渦巻く貪欲な性格は人間そのものの不完全さを象徴します
イエスはそんな強欲な人間たちとは全く違う
美しく清らかな光のような人間になれと言ったのでしょうか?


イエスは人間の弱さを誰よりも知っていたはずです
なぜならイエスも怒りや、悲しみ、嫉妬、鞭打たれれば痛みを感じ、
無視されれば怒りを感じるイエスではなかったのかと…
即ち我々と変わることのない人間の性格を持っていたはずです


ドフトエフスキーがこの小説で本当に表現したかったことは
神性と悪魔性、完全と不完全、貪欲と謙遜、愛と憎しみ、
人間のこうした混沌とした心の状態を如何にして超克することが
可能なのかと言うことを描きたかったのではなかったのかということです


心の中に渦巻く無数の思いや制御できない感情
肉体という壊れやすい形を維持しようとする本能的な欲望は
石をパンに変えることであり、難病にかかれば奇跡を求め、
少しでも快適な生活環境に生きることを人間は誰しも求めるからです。


ではイエスは普通の人間と何が違ったのでしょう
全ての人間が喜怒哀楽を持つようにイエスも同じように悲しみも痛みも
そして怒りさえも持っていたはずです
イエスとカラマーゾフに象徴される人間との違いは
ただ一つイエスは心情の中に浮かび上がる心の思いを主管できる
意志の強さを持っていたのだと今回、思ったのです


意志の強さは神の摂理の原動力であり
人間を必ず救うという神の意志が現れたものがみ旨であり
その摂理は不変だと言うのも絶対的な意志の現れです


この物語は続編がある予定だったということですが未完に終わってしまいました


カラマーゾフの力を超えてそれ以上の強さとは何か
それは自己を主管できる意志の強さがイエスの本質だということを
続編に描きたかったのではなかったのでしょうか?


文先生は人間の責任分担とは心を主管することであって
肉体の本能的な欲望自体が悪なのではなく
それを主管できなかったことが堕落だと言うのです


神の創造目的の最初の祝福が自己を主管することが基本になっているのは
神の子になる第一条件が喜怒哀楽を主管できるかどうかにかかっているからなのでしょう
だからこそ自己主管性を何よりも重要視したのです


神性を持つ人間とは自己主管が出来る人間であって
怒りや嫉妬は喜怒哀楽を人間に与えた神の創造本性の影のような一部です
それを主管できないことを堕落と呼んだのです


再臨したイエスが大審問官に伝えたかったことは
まさに「天宙主管の前に自己主管をせよ」というメッセージだったのです

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