どこかで道を外れた統一運動

膨大な文師の語られた言葉を読み返すと、時に違和感を覚えるような言動に直面する。
信徒は訓読会の大切さを強調されているので、頻繁に読むのだろうが、
語られた時代背景や、誰に向かって話しているのかによっては、
時代錯誤的な理解をすることになる時がある。


例えばこうである


「しかし、今までの復帰は母子協助によって行われてきましたが、今は、第4次アダム圏時代に入ったので母子協助時代ではないのです。父子協助の時代です。オモニはいなくてもかまいません。エバが堕落してもアダムさえ堕落しなければいくらでも再復帰できるのです。ですから、韓国と米国がひとつになれば日本はなくてもいいのです。」
「母親が死ねば息子娘が新しい母親を探し立てることができ、父親も新しい妻を迎えることができるのです。好きにすることができるのです。分かりますか。先生は、日本文化のすべてを見たくありません。その痕跡も見たくないのです。そのすべてを蹴ることのできる時代になりました。日本は何ですか。先生のビザも出してくれません。そのような国は流れてしまうのです。見ていなさい。」2000年01月02日<第17回愛勝日記念礼拝>


「その次に、母子協助時代が過ぎて、何の時代が来ましたか。母親と息子娘がひとつになって父親を復帰し、愛して、エバはその息子娘を中心に天の国の秩序を正さなければなりません。ですから、第4次アダム心情圏の世界が来るのです。それは、母子協助時代ではありません。父子協助時代です。分かりますか。「はい」。第4次アダム圏を宣布する時になると、米国が責任を果たせばエバ国家の使命は終わるのです。分かりますか。オモニがいなくてもアボジと長子がいれば、その家門全体が新たに行くことができるのです。2000年09月23日<成約時代の家庭理想>


こうした説教は韓鶴子女史が「日本はエバ国の責任を果たしなさい」と強調している内容からすれば正反対のような言説に聞こえます。
ましてや母子協助の時代は終わったと言うのですから、摂理は韓国と米国を中心に展開されているのではないのかと思ってしまいます。


「そうでしょう。今回、先生が国連でした演説の中に国境撤廃という言葉がありますが、国境を撤廃するには総生畜貢献をしなければならないのです。旧約時代の所有物、新約時代の所有物、成約時代の所有物が神様の所有になっていません。サタン世界のこれをすべて集めて神様の所有に戻すにはどうすればいいのか。国家、国家で文総裁の名前で所有すると問題が起きるでしょう。「独裁者だ」というのです。世界から総攻撃がはじまります。ですから文総裁が持っているすべてのものも、国連の国にすべて接木しなさいというのです。
そのため、世界平和統一家庭連合、世界平和連合、宗教連合から数多くの団体すべてが国連に入らなければならなりません。青年連合、女性連合、全部あるでしょう。宗教連合、超国家連合、すべて、その次には大学だとか言論界のすべてを国連に結び付けなければなりません。国連の国の基礎をつくらなければなりません。アダムが所有するすべてが国連の国の財産です。そうではありませんか。神様が相続してくれたので国連の国の財産、天の国の財産になるのです」2000年09月29日<入籍祝福家庭が行くべき道>


まだ貧しい釜山の丘に無数の掘っ立て小屋のような家が沢山あったころ、
そこを登っていくと中腹あたりに泥と段ボールの家とも呼べないような、
みすぼらしい小屋のようなものがありました。
「ああ、ここがこの運動の出発点だったのか」と、
薄暗い小さな部屋の中に入りながら、何とも言えない思いが湧いてきたことを
憶えています。青年期とはそういう貧しくても純粋で飾り気のない事実こそが
心を打つものです。


初期の頃の文師の説教の中には神の心情を知ったものでなければ語れないような内容が
珠玉のように綴られています。
しかし時代の流れは新たなメシア像を要求したのでしょうか。
それともそれが神の復帰の必然的な道だったのでしょうか。


文夫妻の生活にも大きな変化が訪れました。
教会の強勢に符合するように慎ましかった生き方が
豊かで豪奢なものに代わって行ったからです。


あるブログで自家用のジェット機や豪華なへリコプターが写真付きで掲載されていました。又世界中にある文夫妻専用の豪華な邸宅は王様と言う位置を復帰したので、
当然神の栄光の姿であると言うのでしょうが、
これが現代の神の描いた理想の人間なのかと、思わずにはいられないのです。


メシアの使命は人間を罪から救済し、
神の子としての栄光を与えることだと教えるのですが、
側近たちの身振りや素振りの中には従属者としての姿はあっても
神の子としての尊厳を持つ姿は見えないのです。


王国の統治を絶対なる神の代身者が直接、関与すれば何が起こるのか?
それは有無を言わせない王の命令が絶対法となり、
そこにいる者たちは全て絶対服従と言う体制の中で生きることになるのです。
これが真理か否かは、後世の人間が検証すべきことなのでしょうが、
王冠を被り金色の椅子に座り、文夫妻が壇上から見下ろす檀下には、
頭を床に付けて平伏する信徒の姿があるだけです。


自分がその椅子に座ったと想像して、その光景を見た時に神の創造目的の帰結が
絶対服従するこの姿だったとはどうしても思えないのです。
忠誠を尽くす姿を見て美しいと感じる人もいるのでしょうが、この姿を実現する為に神は人間を創造したのだろうかと心のどこかに解せない思いが湧いてくるのです。


宗教が教祖を神格化し始めると、自分の中に生きる神が見えなくなるといわれます。
「良心は神に勝る・・・」こういう文師の教えとどのように自分の中で消化していけばよいのか悩む信徒も少なからずいるはずです。
なぜなら神は人間を従属させ、服従させる為に創造した神ではないからです。


原理では人体の構造に似せて作られる理想社会のビジョンが書かれていますが、
現実の世界では理想社会の在り方は様々なイデオロギーや方法論があって
絶対的システムだと言う形態は未だどこにも実現していません。


民主主義が教えることは、社会とは理想を目指すことの中に意義があるのであって、
人間は常によりよい社会を創造進化させる為に生きているのだということでしょう。
固定化された絶対と言うものがないからこそ文明が自由な精神を基調に
進歩しているからです。


統一王国は愛の王国だと言う人もいるようですが、
愛はあたかも川の流れのように上から下へと自然に流れるものです。


川の水は渇いた大地を潤し、緑の野山や平原に命を与えても川の水は無償です。
空気も光も無償なのは神の愛が無償だからではないのでしょうか?


摂理を進展させるための運動は上からの復帰でした。
政財界の著名人、学者、ジャーナリストを招待して大会を開けば彼らが賛同し、
神の国は七年以内に完成すると言うものでした。
しかし半世紀以上も経つのに、今も同じように大会を開き著名人を招待しているのですが、そこに抜けているものは渇いた大地に対する無償の愛の欠如です。


大地に足をつけ汗を流し、涙を流しながら積み上げていくものたちを潤すことなくして
誰の為の神の国なのでしょうか。国の復帰とは特権階級の人たちの為ではなく、
大地に根差す人々の日々の生活の向上であり、それに直結する政治、教育、経済の仕組みの提示です。


摂理を進展させるためには氏族メシア活動の為に
もっと公的な献金を使うべきだったのです。
彼らの地域活動を教会が支え、彼らが望む地域の人々の切実な願望を実現してあげること。それが貧しい国では学校建設となり、医療施設を安価に受けられる施設なのかも知れません。口では氏族メシア活動と言いながら、実際は430人の名簿を作り、献金額を集めてそのお金は地域に行くのではなく神殿を作り、現実には優雅な生活をする特権階級を形成しているだけなのです。


革命が民衆から起こるのはなぜか、それは彼らの友となり、力となるべき上層部がその特権を自らに向けて安着したからです。反対派がこの運動を批判するのは
語っていることと行っていることの矛盾を指摘しているのです。


自分の先祖、自分たちの祝福、自分たちの栄光に執着する前に
もっと目を外に向けるべきなのに、救いの張本人たちが自分たちの環境を整え、
贅を尽くすことに何の意味があるのかと言うことです。


神が愛であり、原理が真理であり、この運動が再び光を放つためには、
どこかでコツコツと縁の下のようなところで愛の実践をしながら、
原理の本筋を歩んでいる人間をもっと支えるべきなのです。


其れこそが良心を神として歩む本当の運動なのでしょう。

×

非ログインユーザーとして返信する