言葉を越えたリアルな実体に触れるには

海辺に沿って原生林が生えている森の中を歩く
無数の草や花、樹木が辺りを取り巻いている
細い道を木漏れ日を浴びて歩きながら
ふと前方に目をやると地中にしかと根を張り
光に向かって堂々と聳えている大木に気がつく


そばに行って触れてみると樹皮には無数の傷跡が付いている
遠くから見る大木とはまるで違う別の顔がそこにはあった


雨風に耐え、夏の強烈な陽射しに、冬の凍える様な寒さに
春に若葉を芽吹くも、秋には枯れ葉となって散って行く
幾年の歳月を経たのかは知らぬが
風雪に耐えた強靭なものが威厳を持ってそこにただ「ある」


その硬質な樹木に触れてみた
突如、何か言葉を超えた直接的な実存感覚に触れた気がした


私達は森や自然の中に入っていくも
見るもの全てに対して言葉にして理解しようとする
「木」と言う言葉にすると「木」のイメージが先にあって
蓄積された過去のイメージで今ここにある「木」をなかなか見ようとはしない
もし「木」と言う言葉がなければ、
ぶよぶよとした地の下にあるものが地表を破って
一つの巨大な生命体として立ち上がり伸びていることに驚くはずだ


「森は私にとって物言わぬ偉大な先生なのです。森は多様性のるつぼです。実に沢山の命が重なっています。一枚の落ち葉を捲るとその手のひらほどの土に何億という目には見えない微生物の世界が広がっています。森全体には一体どれだけの命があるのかと思うと、銀河の星の数と思える程の多様性なのです。同時に森では頂点にいる何者かがコントロールしているわけではなく、それぞれの命がそれぞれのペースで動き、それなのに全体がうまく連携し合って、森という命が続いているように見えるのです」縄文と森ー生命感覚の再起動


物事をあるがままに見ることをせずに
条件付けられた習慣や過去の概念でみるコトバによる精神は
幻影や錯覚そして分裂を生む原因とも言えよう


花壇に花を育てるために肥料や種を購入するのだが
まずなすべき最初のことは荒れ放題の土に生えている雑草を抜く事から始める事だ
内面が条件づけられた知識という無数の壁の中に閉じ込められていることに気付くこと
そしてこれらの凝り固まった囲いをどのようにして壊して
事物の本質に直接的に触れることができるかという事である


条件づけられた思考とは
例えば他者との会話においても見ることが出来る
特に宗教組織に所属する人たちの典型的な思考パターンとは
教祖や指導者から教えられた教義や思想、概念に当て嵌め
それを思考の中軸に置いて、あらゆる種類の異論を予測しつつ、
且つ、それに想像上の反駁を加えて、物事を判断しようとする思考法である
当然、どこかで自分の知的優位性を計りながら相手と話すので
常に不一致や対立が生じることになる


ここには相手の話にいかなる偏見もなく聞き入るという態度が見られない
こうした条件づけられた過去のイメージや概念で見ることが
習慣化されてしまうと「今」という現実に生きているのではなく
過ぎ去った過去の記憶や、いまだ来ていない未来に対して生きていることになる
その結果が、自らの条件づけられた囲いの中に、対象であり、他者であり、
如何にして彼らを引き込むことができるかと言うことが目的となってしまう


コトバを糧とする精神は比較、差異化、差別化という相違から逃れることができない
コトバを超えた精神とはあらゆる状況を一つの全体としてみるのであり、
部分はその全体の多様性の表れであり、生命が連携しているように
全体としての現在をあるがままに受け入れることなのだ


木に直接触れること、現実の生きた生命体との共鳴感を大切にすること
真のリアリティーとはその全体性の中に現れ
そして其の全体性を生み出すものが愛であり
愛こそが現実のリアリティへのドアとなることに気が付く


そして、その時、初めて、あなたがリアリティそれ自体となる

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