沈黙の響き

人間は不思議な存在です。その不思議に気がつくと、実は自分自身がその不思議そのものだったという事になるのです。私たちは子供に何かを教える時、分かったの?と聞きますが
子供はウン 分かったと答えるのは物事の道理を知って答えるというより、一時的にそう言えば物事がうまくいくと思って答えているだけなのです。


学校教育の殆どはどれだけ分からせるかということで教えていますが、この分かるということは物事の半分だという事を理解させる事を忘れているのです。例えば物理科学でニュートンのリンゴの話をして地球には引力があると教えますが、その話を聞いて引力があると分かった気になるのでしょうが、では引力がなぜあるのかという事は分からないのです。


遺伝子の話を聞いて、そうか四つの塩基によって生命が作られていくのかという機能や構造を学んで分かったというのでしょうが、人体を構成するDNAになぜそうした暗号記号のようなものがあり、誰がそれを作ったかということは分からないのです。そこを無理やり自然の進化でそうなったというのは無理があるので村上和雄さんのように生命が自然にできる確率は宝くじに百万回連続して当たるようなもので常識的には考えられないとして、サムシンググレイト、この宇宙には何か我々を超えたものがあるに違いないと言わざるを得ないのです。それでも進化論者はその不可能な確率を支持するというのですから一種の狂信的信仰者のようなものです。自然科学は確かに現代文明をより快適にしてくれました。だからと言って自然科学が人間の不思議を解明したかと言えば否なのです。


大本教の出口王仁三郎という教祖がいましたが、彼は霊主体従ということを主張しています。簡単に言いますとこの宇宙はまず見えない無形なる霊的なものが先にあってこの現象界はそれに従って出来たものだというのです。この世は霊の世界の写しだと言う事です。
これに反対するものが唯物論で宇宙は物質から進化して来て人間に至ったのだと言う考えで、生命現象も偶然や突然変異によって進化し、その進化が脳細胞を構成して、脳が意識を作ったのだという説なのです。まさに体主霊従という事になるのでしょうか。


何を言いたいのかと言えば、ものの見つめ方がそれぞれ違うという事なのです。問題はそれぞれの考えが国家の統治体制にまで影響しているので、俗にいう自由民主主義と共産主義という相反する国が対立しているのです。
人間は心的存在ですから心の有り様によって作り出す世界認識も変わって来ます。


私は霊主体従に近いですから、物事を霊的に捉えます。霊的というと何か目に見えない霊に対して薄気味の悪い印象を持たれる方もいるかも知れませんが、端的に言えば目に見えないものが現象化してきたのがこの世界だという事です。言葉を変えれば不思議が存在の根拠にあるという事です。その不思議はさまざまな方法でこの世に現象化しています。それが一番よくわかるのが芸術だと思っています。芸術はまさに聞こえないもの、見えないものが音になり、文章となり、絵画になり、演劇や踊りになるのです。日本では柔道、剣道、茶道、華道、それを道ということで文化の伝統にまでなっています。


音楽はピアノの単音を弾きますとただの違う振動数を持った音が聞こえます。ところがその音を繋げるとメロディとなり、それに振動数の違いによる長和音と短和音を巧みに混ぜるとより深い一つの心的宇宙が現れます。長和音の響きがなぜ明るく活発な積極性を持って心に響くのか、短和音を重ねるとそれとは反対の物悲しい、切ない心を誘発するのかまさに音の不思議がそこに現れるのです。例えば日本の歌謡曲の代表的な演歌は艶歌、怨歌と歌に想いがこめられています。悲しいマイナーの響きが苦しかった自分の心に共鳴するとそれらの曲で慰められたり、又その時の体験が思い出されて涙を誘う事も度々あるのです。

悲しい時は涙が流れます。でも涙を物理的に分析しても悲しみを涙という物質の中に見つけることは出来ません。悲しみが先にあってそれが物質として表現されるので、涙を見た人はああ悲しいことがあったのだと気がつくのです。気がつくというのはその奥にある見えないものに触れるということです。


物理の話に帰りますと、地球には引力、重力があるということがわかっても、それがなぜあるのかは分からないという不思議があるのに、知的な世界ではその不思議がいつも置き去りにされてしまうようです。分かるということは分からないものがあるということ、これに気づくことが、大切なのです。


全てが合理的に分かるようになっていないからこそ人生は素晴らしいのかも知れません。
命を拝むということは、わからないものに人間は生かされているという事です。そこから得られる心が謙遜と感謝であり、これもまた不思議のなせる技なのかもしれません。作家は目に見えない沈黙の言葉を書き表し、音楽家は聞こえない沈黙の響きを鍵盤や弦を通して表すのでしょう。沈黙の響きを聞くとは禅僧の片手の隻手を思わされます。片手で打つと何が聞こえるかです。片手の響きは無いのではなく実在しているのです。だから両手を打つと音が聞こえるのです。


霊學とは見えないもの、聞こえないもの、触れることができないものは存在しないのではなく、それこそが実在だと実感することなのです。その霊の世界を心情圏とも呼んでいます。心情圏とは全ての存在物の根拠であり、故郷だと言うことです。人はそこから生まれ
またそこにかえっていくのです。物理学的にはゼロポイントフィールドと呼ぶ様です。


心情圏の中心が何かと申せば、それが愛であり慈悲であるという人間の最高の精神的徳目に繋がっているのです。また最も不思議なことは、その現れこそがあなたであり、私だということです。仏性も神性も見えない精神、霊の実体的な現れです。
高名な禅僧はそれを全ての人間が持っているので不肖の仏心と呼び、キリスト教のイエスはあなた方が神の宿る宮であると言ったのです。どこか遠いところにいる仏様や神様ではなく、まさに自分の中に宿る神であり仏だったのです。


生命を拝むということは、愛を受け止める器として人生を与えられたのが人間だということです。愛によって生まれ、愛の中を包まれて生き、また愛に帰る。


沈黙の響きは日常の中に潜んでいます。汚れたトイレをきれいにする時に現れる気持ちの良さ、これが仏性です。道で困っている人に何か助けてあげる。これが神性の表れです。
それぞれがそれぞの役割の中で真心を込める時、そこに心情圏が現れるのです。

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