日常こそが神の実体的感覚の場

原理とは生きている現実のことです
神を中心として主体と対象が一体化すれば四位基台を造成する
こういう哲学的説明も良いのですが言葉は往々にして日常生活から離れてしまいます


神を中心として生活するとはどういうことなのか?
この簡単な事実が生活に降りて来なくなると
祭壇を作り仰々しい祈りや儀式に変わるのです


一杯の水を飲む
するとその水が喉を潤し
なんとも言えない満足感が心に広がります
「嗚呼、実に美味しかったなあ」
この美味しかったをいう心の動きの主体は誰なのか?
誰が喜んでいるのか?


渇いた喉を潤す為に水を飲むという主体である私と
水という対象の授受作用の行為を通して
心の中に降りてくる思いや情感、喜びや感謝の念
この心の動きが四位基台の中心と繋がっているのです


日常生活における対象との関係の全ては
こうした何気ない心の発露の連続です
この心の動き、浮かび上がる思い、情感が自分のものだとしたことが
天使長的血統だというのが私の理解です


ではもう一度考えてみましょう
自我だと思っている心の動きの主体は誰なのか?


人間が被造物だということは言葉を変えれば、
何者かによって生かされているということです
この当たり前の事実に心の底から気がつけば
存在は全て受動的だということに目覚めます


空気も水も光も環境は私を生かす為のものです
生かしている主体を神と呼ぼうがアラーと呼ぼうが、
重要なことは我々を生かしている大いなるものと
一瞬たりとも切り離されていないということなのです


何一つ自分が関与していないので身体が何故この様な構造になっているのか
誰にも分からない様に心も全く同じなのです
それは全ての人間は神と同質なるもので
身体も心も創造されているということです
それが証拠に身体のみならず言葉も情も似たような質感をあらゆる人間が共有できています


食べること、飲むこと、歩くこと、見ること、聞くこと
これら五感に感じる全ては神が介在していると同時に
生活の一瞬一瞬を共有しているのです


原理は語ることだけでもなく、知識として書物の中にあるのでもありません
ましてや教会のものでもなく、誰の所有物でもないのです
原理とは既に元々からあってあるものであり、日々の生活が原理そのものなのです


一杯の水をいただく
乾いた体に染み入る様に入っていく
このなんとも言えない感覚
無形なる神があなたの中に
「嗚呼、美味しかった」と言っているではありませんか

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