祝福の本質

祝福とは神の血統を残すことですが
文先生が「君たちがタマルのことを研究すれば全てがわかるよ」
と言われた祝福の本質とは何だったのでしょうか?


堕落論によれば堕落の動機は天使長の自己中心性から始まったと言います
神の復帰摂理はこの動機を神の動機に転換する事でした
だから血統の本質とは神の動機のことであり、それを正すことを言ったので
血統相続とは言わずに血統の転換と呼んだのです


「血統転換とは心情の転換であり、これが最後の最後まで残るものなのです」


では、天使長とエバは「取って食べてはいけない。それを食べると死ぬであろう」
と言われた戒めを破って堕落したのですが、その心情の動機「死んでもいいから取って食べたい」という動機はどのようにすれば復帰できるのかといえば、まさに逆の経路である
「たとえ死んでも神の動機を優先させる」というのが復帰の目的となったのです。
これを心情における蕩減法とでも言えばよいのでしょう
タマルは「たとえ死んでも神の血統を残す」という動機でユダと関係を持ちました。
当時の常識や慣習から言えば、それは、まさに死を覚悟しての行動だったのです。
天使長の死んでも自分のものにしたいという自己中心的な動機を
死ぬかもしれない覚悟で神の血統を残したい言う動機が
失われた神の心情につながったと見るのです。


このタマルの信仰の原点がノアやアブラハムでした。
イサク献祭はアブラハムとイサクの「死んでも神に従う」という
親子の象徴的な心情の動機を神におくという転換の物語となり
その伝統が祝福の基となったのです。


イサクの二人の兄弟エソウとヤコブの内でその祝福を誰が相続するのか
と言うことで家族間で葛藤がありました。
母リベカは神のみに生きると言う心情の動機をヤコブの中に見たのでしょう
リベカは兄エソウの受ける祝福をヤコブに相続させることに協力したのです。
その行動は原理を立たせるための蕩減を含んだ逆の復帰路程でした。
兄の恨みをかったヤコブは祝福の心情を守りながら二十一年の蕩減法としての
苦役をしたのです。
ヤボク川で天使を相手に闘い勝利する事によって選民イスラエルが始まったのです。


神の心情の動機を転換させた三代をアブラハム、イサク、ヤコブの神と呼び
そのはじまりが死を乗り越えたタマルの心情の動機が民族の上に広がっていったのです。


タマルの心情の動機はマリアに継承され
タマルと同じように死を決意する立場に立つことによって
神のみに相対する動機に天使長の自己中心的な動機を超えて
まさに讒訴のない原罪を超えたメシアが誕生することになったのです。


十六歳の時、文少年の祈りの中で現れたイエス様はその基台の上で
自分が果たせなかった本来の創造目的の使命を託したと言うのです。
それが神の愛の心情の完全なる現れは神の動機に基づいた男性と女性との関係の中で
愛の実現を完成するということでした。
神が二性性相である限り、愛の全体的顕現は一人では現れることが出来ないからです。
文先生はこの心情の動機を相続した基台の上でイエス様が果たせなかった
失われた女性を再創造するという最大の使命に全てを注いだのです


1960年の聖婚式は人類歴史上の最大のハイライトでした。
それを祝福と呼んだのは、まさに神の心情の動機が万民に相続可能となる
始まりでもあったからです。タマルやマリアから引き継がれた
死んでもいいから神のみに生きるという動機は祝福の絶対条件だったのです。
一世の祝福が献身者中心だったのは献身自体が神に身を捧げたと言う
条件でもあるからです。


そして神様王権即位式以降、摂理は大きく変わりました。
聖書で言う「御霊が直接あなた方の中に直接降りてくる」時代圏になったのです。
言葉を変えれば、祝福家庭に直接神が現れる時代圏に入ったと言うことです。
「主の御名を通して、真の父母の御名を通して…」と言う時代が過ぎ去り、
自分の名前で祈り、神と直接通じる霊界が解放されたとも言えます


氏族メシア運動が「宿命」であると言われたのは、氏族の父母という称号を
自分たちの努力で与えられる時代圏に入ったからです。
それを氏族メシアと呼ぶのは父母になることによって氏族全体に対して
祝福を与える立場になったと言うことです。
ではどうしたら祝福家庭が本当に氏族におけるメシアになった実感を
得られるのでしょうか?祝福はゼロポイントに戻ったと言うことなら、そこから
祝福の完成が必要となります。ゼロから成長して神を迎える
神の日までの路程が残されているからです。


神の愛の動機は「与えて与えたことも忘れる」
この心情の動機を中心として夫婦間でその情を完成させることが問われているのです。
原理によれば見えない神が愛の実体として現れたのが相対者です。
その相対者に対して本然の愛の動機で接することができるかどうかが
個々の責任分担となるからです。


しかし、実際には夫婦間で理想通りにいかず葛藤が起きるのは
一世の祝福は残念ながら、蕩減祝福だったからでしょう。
本来は初愛の情を育てるのが男女の在り方なのでしょうが、
蕩減祝福とは怨讐を愛することだったからです。
祝福家庭が壊れるのはその怨讐を越えることができなかったことも一因でしょう
とりわけ国際祝福の問題は民族の葛藤や怨讐に耐えられなくなるとも言われています。


しかし、こうした時代も過ぎ去り、心情圏は大きく解放されつつあると感じています。
後天時代とはある意味では古い考えが新しくなる
新旧の信仰観が交錯する時でもあるのです。


何が正統なのか異端なのか、祝福とは何か、原罪とは何か、
こうした根本的な問題が表に出てくる時なのです
一例をいえば、原罪についても、統一神学校の総長を務めた人物でも
原罪とは何かについて「自分でもまだ結論が出ていない」と述べているのです。
また韓鶴子夫人が「文先生も原罪があった、私は原罪無くして生まれた」と言われても
誰一人、何が正しいのか判断できないように、原理の中枢の教義が揺れているのです。


これを理解するにはそれぞれが直接、神に触れる以外にないのです。
私の神体験でいえば、原罪とは血の中に流れる物理的なものではなく
肉体はあくまでも心情を受ける器だと言うことです。
正常な受信機が明晰な電波を受信できるように
身体とは心情をキャッチする受信装置なのです。
脳細胞の中をいくら探しても意識を細胞の中に発見することはできないように、
心情も意識も身体の中にはないのです。


このことを悟るには、心情圏と言う霊的世界を知る必要がありますが、
霊の世界は霊的五感を開発しない限りなかなかわからないのです。
血統とはこの霊的心情圏にどのようにしたら繋がることが出来るかと言うことなのです
この心情圏を知悉した人がイエスであり、文先生だったのです。
心情圏の縺れた糸を解き放すために選ばれた僅かな人間は
死を覚悟して積み上げてきたものが血統とは何か
それが「心情の種」である真の愛のことだったのです。


そしてその種を無償でもらった人たちが祝福家庭なのです。


接木とは、メシア家庭に繋がるのではなく、メシア家庭から「芽つぎ」をしてもらうことです。それはそれぞれの祝福家庭に真の父母の新芽が接木されたと言うことです。
だからこそ
「君たち祝福家庭が真の父母になるのです」
「良心に、まさる神はいない」
「先生の使命は終わったので、もう私を探す必要はない」と言うことになるのです。


生きた神が自分の中にいる実感をどうしたら体験することができるのか?
その秘密が実は八大教本の中に書かれています。
それを取得したものこそが本当の祝福家庭なのです。
神様は生きていました。そして実体的に感じる神様だったのです。

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