宗教法人の解散について

「寺院消滅、失われる地方と宗教」という本があります


その中に「25年後には35%の宗教法人が消える」と書かれています。
その主な理由は地方の人口が都市に流出することで市町村が合併したり
消滅していくからだというのです。


過疎化していく市町村に所在する宗教法人はなんと6万余あるとこの本では試算しています。確かに人のいないところの寺院の存続は難しくなるだろうと素人目にも思えるのです。
しかし、こういう統計とは別に
「仮に35%の寺院がなくなってもなくなるのは形だけの建物であって仏の教えがなくなるわけではない」「人口が減り、寺を必要とする人の数が減れば、寺の数が減るのは自然の流れだ」と達観する住職もいるのです。


今回の解散指示によって、信仰の自由が侵害されたと裁判でこれから争われるのでしょうが、宗教法人がなくなることで神や仏がなくなるわけではありません。確かに今まで中央集権的な組織の恩恵を受けてきた人たちにとっては切実なことかもしれませんが、かえって本来の宗教の形に戻るだけなのかもしれません。


それを統一運動では「氏族メシア運動」と呼んできました。それは家庭を中心に氏族や地域の人たちを父母のような心で尽くしていく運動だからです。


組織化された宗教は常に特権階級を生み出します。彼らは自分たちを選ばれた者と呼ぶのでしょうが、言葉では「心は父母の心情、体は僕のように尽くすこと」と教えますが、
いつの間にか、組織の上位に君臨し始めると、知らず知らずのうちに、自分たちの特権意識に酔い始めるのです。そして象徴的なお金というこの世の神に屈していくのです。


今回の高額献金問題から発生した問題の一つに信徒の身を削って捧げた貴重な献金を一部の幹部が不正に乱用したことでした。その最たるものがラスベガスでの幹部たちの豪遊でしょう。このことに関して誰一人内部から異議を唱えるものや、謝罪する幹部がいないことがこの運動の盲従性を表しています。自分たちの汚点を隠ぺいし、声をあげる者を不信仰者として断罪する体質のことです。


ピラミッドの頂点にいる者は自分たちが多くの土台によって支えられていることを薄々知っているのですが、いつの間にかこうした特権意識が心のどこかに慢心の思いを生み、傲慢性を助長するようになっていったのです。「下にあるものが上を支える」これが人体の原理です。宇宙も同じように低次のものから高次のものへと創造進化してきました。下にある土台を無視すれば上は崩れていくのです。


高い山の頂に最初に陽が当たりますが、しかしその頂もそれを支える山全体があるからです。積み上げられた無数の名もないものの上にある頂点の光だということを忘れると今回のように土台から崩れていくのです。


二世や三世の若者がシンポジュームで自分たちの将来に関して憂慮している動画が流れていましたが、宗教法人の解散によって漸く「氏族メシア運動」の原点に戻ったと思えばよいのです。神の栄光を現すためには、何よりも組織ではなく自分がまず世の光、地の塩になることです。そのためには地域社会の手足になり、地道な活動によって地域からなくてはならない人になることでしょう。


まさに足の裏が輝くようになって初めてわかると言うのです。それは神が仰ぎ見る高いところにいる神ではなく、身近な自分の脚下にいる神だということに気が付くからです。

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