統一運動に浸透するニヒリズム

神の国は今も人類の願望です


しかし人間は本当に神の国を建設することができるのでしょうか?


歴史的にはキリスト教は既に何度も国教になっています
イスラム教、仏教も然りです
しかしなぜ神や仏を中心とした国ができても
それが永続しなかったのでしょうか?


原因はその国家の土台となる家庭そして家庭を形成する一人一人の内に
神と共に生きるとはどういうことなのかが明確でなかったからです


宗教は信仰生活の大切さを教えます
具体的には教祖の語ったみ言を信じることでしょうが
問題は神仏を信仰する次元から飛躍できてないことにあるのです
もっと言えば神仏と一体となる境地に
霊性を高めることが出来ていないと言うことです


神は信じる対象ではなく共鳴しながら「私」の中に実現することなのです
文師は其れを神を着ると呼びました


神を愛という言葉に変えてみれば
もっと分かりやすくなるかもしれません


愛は信じることではなく
共鳴しながら「私」が着て愛し愛されることなのです


血統転換を受けて生まれた祝福家庭の子女たちは
原罪が清算されサタンの讒訴圏から解放されたので
本然の人間に近い存在となり責任分担さえ果たせば神の子となる


概ね多くの祝福家庭はこのような思いを持って来たことでしょう


最初の躓きはメシア家庭の子女様の不祥事から始まりました
麻薬、家庭内暴力、不倫、離婚、と理想家庭のモデルが
次々と瓦解していったのです


純潔と結婚の重要さを強調してきた原理の根幹が
真の家庭を通して崩れたことは理想家庭を目指す統一運動における大きな衝撃でした


その説明に奔走した教会側は
信徒の罪を受けて真の家庭が犠牲の供え物になったのだと結論付けたのですが
それまで無原罪の子女様として信じてきた信徒にとっては
心の何処かに納得の出来ない蟠りが生まれたことは否定できないのです


理想家庭のモデルがいとも簡単に崩れ落ちた事実こそが
その後の信徒の無意識の中にニヒリズムを生む遠因になったと私は見ています


そのことで一番心を痛めた人は他でもない真の父母でした


戸惑う信徒の求心力を回復させる為に再び祭物精神に戻る必要があったのでしょう
組織と教義の正当性を維持するみ言が
絶対愛、絶対信仰、絶対服従となったのは周知の事実です


しかし問題の根はメシア家庭にだけ生じたのではなく
血統転換をして神の子女として生まれたはずの
祝福二世の中にも同様なことが起こっていたのです


原罪がなくなれば連帯罪も遺伝罪も共に清算された立場に立つ
と教えられたのにも拘らず
この世の通常の子供と祝福家庭の子供とは何が違うのか
戸惑うような実態が自分たちの足下にもあったからです


現実はいつもリアルです


祝福を受けて生まれた祝福二世が抱える精神的な問題が
次々と出てくると当然のことながら親は深刻に悩みます


原罪が無いと信じた自分の子供が悩み
統合失調症などの精神障害に陥っていることに気がついても
それを公に語ることもできず共に苦しむ祝福家庭は少なからず多いと聞きます


真の家庭の子女様はカインの祝福家庭が守らなかったが故に
その蕩減を受けたのだと聞かされれば
自分たちも同じように先祖の蕩減を受けているからだと
蕩減原則の隠れ蓑の中で自分たちの立場を正当化する以外に
他に方法はなかったのです


「本当はもっと素晴らしい子供であるはずなのに
きっと親の蕩減条件が足りなかったに違いない」


献金を積み
清平に通えば重苦しい霊界を解放できると思い
そこに救いを求めているのでしょうが
ではそれで神の子になれるとでも言うのでしょうか


イエスは家庭からも親族からも保護されず見捨てられたにも拘らず
なぜ神の子としての立つことができたのでしょうか?


思えば聖酒を飲めばメシアの勝利圏に立つことが可能となる
…条件が立つ、…とみなす、…のようなもの、立場、讒訴圏
こうした一連の曖昧な統一用語は真理そのものというより
微妙に周辺をなぞっているだけで真理そのものを指してはいないのです


もっとはっきり言えば神の子ではなく
神の子とみなす、その可能性があるということなのでしょうが
この理想と現実の乖離の中にニヒリズムが生まれるのです


親の過度の期待を背負わされた祝福家庭の子女たちは
理想と現実の狭間に自分自身が立たされていることに気がつくと
純粋であればあるほど逃げ場がなくなり
その重荷に耐えられなくなり挫折してしまうのです


原罪なくうまれたと言われた自分自身を見つめ
サタンは自己中心が動機となったと教えられれば
自分の心の中に生じる自己中心性に誰もが葛藤を憶えるのです


病院の無菌室のような信仰によって育てられた子供であればある程
過度の期待と厳しさに自信をなくし
心を閉ざして引きこもってしまうのです


特に思春期を迎える頃になると
こうあるべきだという理想とそれに合致しない
自身の姿に深刻な精神的混乱を引き起こすのです


自我の葛藤は否定することではないのです
自己中心は悪ではないのです
「それは神も創造前のある一時期
自己中心的だったからだ」と文師も認めているのです


成長期間の意味がそこにあるのに気がつかない限り
自我を否定する服従心だけが信仰者のあるべき姿として
強要されてしまうのです


父子の関係は心の中に既にあるのです


良心が神( 父)であり私の自我が子供だからです
その子どもの自我を育て良心の声に服従することができれば
絶対信仰が確立しその実践を継続していけば絶対愛に繋がると言うのです


個性の完成とは良心が自我を主管できるかどうかなのです
それが父子関係「我と汝」の関係となるのです


神は遠くにいるのではなく
今ここ
私の心の中にいるのです
このことがわからない限り
人間はいつまでも神を外の対象の中に追い求めることでしょう


「我を見しもの、神を見るものなのです」


心を見つめるもう一つの意識「真の我」に気がつくこと
これが出発点です


神の国は一人一人が神の現れる実体とならない限り
これからも永遠に天上にあるだけでしょう

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