イエスの深い愛の心情

以前から疑問に思っていたことですが4大心情圏の基盤のない
イエスの深い愛の心情はどこで育まれてきたかと言うことです


文師によれば創造本然の人間が最初に受ける愛は子女の愛だと言います
その愛が兄弟の愛となり、夫婦の愛、父母の愛となって四大心情圏を
体恤することが神の愛の完成だと言うのです


ところがイエスは幼いころから私生児として生まれ
両親から子女の愛を完全な形では受けていません


12歳の少年イエスが迷子になった時も、親はイエスがいないことに気が付き
三日の後に宮に探しに行く話はそのことを暗示しています


またヨセフとマリアの実子ではなかったが故、他の兄弟と比較して何らかの差別があったことも推測できるのです
ましてや生涯独身だったイエスに夫婦の愛や父母の愛の実体験は皆無です


ところが、彼の言葉や行動は常に愛の究極的な心情をもって
弟子たちに接していたことがうかがえるのです
怨讐を愛し、自分を十字架にかける者たちさえ許すことのできる
大きな愛は一体どこから学び継承したのでしょうか?


仮にマリアとタマルの信仰の上に血統転換され、原罪のない立場で生まれてきたからだと説明するならば、祝福家庭も理論的には同じ立場に立つのではないのでしょうか?


よくある説明に、原罪がなくても堕落性はまだ両親から引き継いでいるので
私たちはイエスとは違うと言う人がいます
しかしザカリアもマリアも程度の差こそあれ
今の祝福家庭と同じ様な立場ではなかったのではないのでしょうか?


つまり堕落性が皆無ではないと言うことです
ましてや人類史上初めて完成した真の家庭の子女たちは
理論上はイエスの誕生以上に本然のかたちであるはずなのです


二世同士の祝福に固執し、文師から受けた血統の存続を生命視する考え方は
今も祝福家庭にとっては最も重要なことであり
仮にそうならなかった家庭の二世たちは
信仰の落後者のような烙印を押されるような風潮があります
それもこれも血統主義が優先されるからでしょう


では人間が完成するとはどういうことなのでしょうか?


「アダムとエバが完成し、神を中心として夫婦となることにより、その絶対的な愛の力によって、神の直接的な主管を受けるようになれば、いかなるものも、又いかなる力もこの絶対的な夫婦の愛を断ち切ることが出来ないから、彼らは決して堕落するはずはなかった」
原理講論・堕落論


真の家庭の子女たちの結婚はこの原理が正しくなかったことを
証明することになってしまいました


「カインの立場の祝福家庭の不信仰の為、犠牲になったのです」
と言う人もいるようですが
いかなる力も断ち切ることが出来ないと言う表現を何と解釈しているのでしょうか?
真の家庭の崩壊は祝福が一つの理想に過ぎなかったことになります
このことに関して如何なる論駁も事実の前には只のこじつけになるばかりです


イエスは夫婦の愛も四大心情圏も実体では経験していませんが
愛の本質をしっかりと継承しています


家庭が重要なのはわかりますが
そこでしか愛の相続が出来ないと言う主張は
イエスにおいては当てはまらないのです
事実イエスの孤立した家庭環境はそのことを否定しているのです


神の愛は本当に祝福を受けた家庭からしか引き継げないものなのでしょうか?


私にはイエスの深い愛の心情はイエスが神の心情と共に
常に生きていたからだとしか考えられないのです


弟子のピリポが神様はどこにいるのかと問うた時
「私を見たものは父を見たのである・・・・私が父におり、父が私におられることをあなたは信じないのか・・・」ヨハネ14章


四大心情圏は確かに家庭内における愛のかたちを明確に理論化しています
併し、余りにも自分の家族が原点だという存在学的な家庭の出発点にしがみつくと
家庭がうまく行かない祝福家庭には永遠に神の愛が分からないような教えになってしまいます


イエスのような家族から見放されても神を感じ神と共に共鳴しながら
生きることが出来れば、誰であっても深い神の愛に触れることができる
と言うことではないのでしょうか


マザーテレサの奉仕の愛、聖フランシスの清貧の愛、
キリスト教のみならず世界中の聖人や賢者の姿が今も時代を超えて
普遍性を持つ理由は彼らが神の愛に生きたからです


人間の心情が家庭の中で形成されることは言うまでもありません
それを4大心情圏と呼んだのでしょうが
古代のギリシアにも「愛」を表す言葉が既に四つありました
「男女/夫婦の愛・エロス」「友情/兄弟愛・フィリア」「親子/父母の愛・ストルゲー」
そして「無償の愛・アガぺー」です
先の3つは4大心情圏と同じように家庭内での愛のかたちです
家庭内では誰もがごく自然に信頼し愛することは出来るのです


しかしイエスはこういうのです
「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなた方にどんな報いがあろうか」
マタイ5章・46
「敵を愛し、あなた方を憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなた方を侮辱するものの為に祈りなさい」ルカ6章・27-28


4つ目の無償の愛は4大心情圏を超えていると思うのは
私の思い過ごしなのでしょうか?


祝福家庭同志の凝り固まった血統主義における閉塞した種族のような集まりだけを
価値視することで本当に世界万民の心を捉えることができるのでしょうか?


今一度、祝福の恩恵が何であるのかを見つめなおし
神の愛の相続者とはどういう人間なのかを
改めて振り返る時が来ているのではないのでしょうか


続く

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