彫刻像の除幕式に関する感想

先ごろの彫刻像の除幕式を見た感想です


統一運動の組織の在り方や先祖解怨等の信仰姿勢を見ていると
改めてこの運動を推進する根本教義である原理講論も
もう一度、再検証する必要があると思うようになりました


原理講論は単に聖書を基にした新しい真理と言うだけではなく
韓民族の文化や情緒を生み出してきた儒教も大きな影響を与えて
いるように思える箇所があるからです


元々、儒教は中国の古代信仰である先祖崇拝を理論化して体系化されました
特に先祖を祀ることが重要とされたのは自分の子孫が絶えてしまえば
先祖を敬うことも出来なくなるので血統による相続
特に男系に依る長子の家系相続が重要視されたのです


統一運動も同じように血統を中心とする同族意識が重要視され
それが氏族、民族へと拡大すれば世界が同じ血縁圏の一大家族になれるという教えです


この儒教の考えは徳を持つことを強調しました
個人が徳をもって身を修め、それが家庭の規範となり、
民族や国家へと広がれば天下に平安がもたらされるというものです


「義・礼・智・忠・信・孝・悌」この七つの徳目を治めれば
「仁」と言う徳のある人格者になれると言うのです


七つの徳目の中でも大切な徳目が韓国においては「孝」という情です
韓鶴子女史が「孝情の精神」をことさら強調するのは
「孝」の徳目が第一義とされるからなのです


親を助けるために自分の命を捧げた有名な古典小説「沈清伝」は
その代表的な親孝行の物語です


中国の元の時代の郭巨と言う人物も孝情を捧げた孝子として文献に残っています


郭巨の母は孫を眼に入れても痛くない程、可愛がっていました。
飢饉に襲われた時も郭巨の母は自分は食べずとも
孫だけには不自由な思いをさせまいと自分の食べる分も与え
その結果、体力を奪われ、次第にやせ細っていくのです


貧乏だった郭巨は母に十分な食事を上げられないことを悩み、
考えた挙句、自分の子供を殺そうと決意します


彼は妻を説得して子供を生き埋めにするための穴を掘っていると
そこから金塊が出てきて物語はめでたしめでたしの結末で終わるのですが
孝と言う徳目が最も優先させるべき徳として称えた物語です


日本人の考える親孝行とは随分違う感覚ですが韓国の儒教では
祖父母、父母、長子、次子と優先順位が明確なのです


日本における文師の言葉を纏めたみ言葉集の表題に
「忠孝の源」という本がありました
これを纏めた神山さんは忠と孝を同じ次元で見つめようとされたのでしょうが
主君に対する忠と親に対する孝を一つにする考えは日本人独特の儒教解釈です


しかし本来は孝が先で忠は後なのです


儒教の影響を受けた統一運動は血縁関係の濃いものを優先する
「孝情」という徳目を強調して作り上げようとする社会が理想とされるのでしょうか


組織における体制は3家庭、12家庭、36家庭・・・と
世襲制、血縁重視、血の濃さが人間の価値を決めるかのように
真の家庭を中心に古参の祝福家庭が元老と呼ばれる地位につき組織の上位に位置しています


除幕式でお披露目をした彫刻像がブログ上で炎上状態になっていますが
この像に対して批判する人の多くは、
「何故、お母様お一人なのか」と言うことでしょう
仮に二人が中央で王冠を被っていたならば
批判はなかったのかもしれません


しかし問題の本質は独生女教だけにあるのではなく
原理講論の中にもこの儒教的な教えを示唆している箇所があるのです


「完成した人間によって実現される理想社会も、やはり完成した人間一人の構造と機能に似ているようになっているのである。人体の全ての器官が頭脳の命令によって起動するように、理想社会の総ての機関も神からの命令によってのみ営為されなければならない
三権分立の原理的意義


「天国は神の本性相と本形状の通りに、個性を完成した人間一人の容貌に似た世界であるということを、我々は知ることが出来る。人間において、その心の命令が中枢神経を通じて、その四肢五体に伝達されることにより、その人体が一つの目的を指向して動じ静ずる様に、天国においては、神の命令が人類の真の父母を通して、全ての子女たちに伝達されることにより、みな一つの目的に向かって動じ静ずる様になるのである」
創造目的・神の喜びの為の善の対象


統一運動の目指す理想世界は神の命令を下す真の父母に絶対服従し動じ静ずること
が目的だとはっきりと記載されています
その為に現実的訓練としてアベルに絶対的に従うという信仰が
これまでの運動形態を支えてきたのです


一方では一人ひとりが神の宮になるというキリスト教の教えを語り
現実的には儒教による上位下達の社会を教義化していることが
この彫刻像建立の中に見え隠れするのです


中央で王冠を被り、群がる子供や崇める人々を治めて君臨する自分の像を
満足気に見つめる韓鶴子総裁はまさに理想社会と称する天一国の姿は
唯一絶対の真の父母である自分を通して神の命令が来ると言うことなのです


真の父母とは崇拝するものなのでしょうか?
或いは崇拝されるものなのでしょうか?


私の結論は
それぞれが真の父母になることだと思っていました


晩年の文師が何度も強調した言葉が「良心は神に勝る」
とはそのことを言っているのではないのでしょうか


神の最大の創造の傑作品は人間であり
人間こそが最も美しい神の王宮です


自然を観る時、愛する我が子を見る時、何かに困っている人を見る時
神が私の中の喜怒哀楽に反応して現れるのです
私の心情に触れる神を知ることなしに
人間を崇拝して何を得ようとするのでしょう


誰かを崇め神格化するのではなく
自分の心情に現れる神に気が付くことなしにどこにも救いはないからです


骨の髄まで染み込んだ蕩減思考を乗り越えて
受けたものが祝福の恩恵であり血統の転換なのに
これでは何の心情の転換にも至っていません


実体的救いが始まった後天時代とは
あなたの妻や夫、そして子供との愛の心情の中から
新しい天国が始まるということです


真の父母思想とは像を前に跪きひれ伏すことではなく
自分たちが真の父母になることだと思っています

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