真の愛と心の傷

霊界は無形実体世界だと言いますが、形がないのに実体がある世界とはどのような世界なのでしょうか。唯一考えられるのは夢です。夢は実体がないのですが映画のように一つの物語を構成することが出来ます。若いころ超現実主義を研究していた時、夢の記述を毎晩書いたことを憶えています。


訓練とは恐ろしいもので、半年後には夢をコントロールすることが出来るようになりました。例えば断崖から落ちる場面を夢の中で見ると、即座に落ちたら怪我をすると言う思いが起こり、その場面がカット出来るのです。また連続して昨日見た夢の続きを見ることも出来るようになり、まさに映画監督のように夢を自在に動かすことが可能となりました。


人間の肉体は霊の器です。無形の霊が肉体を通して霊体を形成するので無形実体と表現したのでしょうが、通常それが分からないのは日常の肉的五感の認識作用で霊界を判断しようとするからでしょう。


例えば毎日聞こえてくる音楽や音には実体的な形がありません。
モーツアルトの楽曲は其れを演奏するピアニストの鍵盤の響きを通して現れ、誰もが
モーツアルトの感性に即座に触れることが出来ます。植物や動物と違って人間の凄いところは或る人が八十年生きて死んだとします。それは単に霊を受ける器がなくなったのであってそれまでに体験した心情は霊体に刻まれていて決して消えないのです。


人間の霊体もモーツアルトの音楽もこの世で起こった事象が霊界に刻印されるとすれば、移ろいゆくこの世の現象は全て諸行無常の儚いものではなく、人間を通して永遠の霊的世界に残されることになります。それを霊学ではアカシックレコードと言い、其れを知る方法を空海は虚空求聞持法と呼びました。


例えば目の前にある花をじっと見て、目を閉じてその花のイメージを浮かべてみてもイメージは明確ではなくぼやけた印象が残ります。自分の顔を鏡で見て、同じように目を閉じても顔の細かい輪郭ははっきりとしません。それは肉的五感が強いからです。
死と共に肉的五感から解放されると霊的五感が機能を始めるのです。


芭蕉やリルケが到達した詩境は自然を自分の心の中に受け入れることによって
例え花が散ったとしてもその花を愛でた心情は人間の内部を通して無限なる霊界に刻印されると言うことに気が付いたのでしょう。


「大地よ、これが御身の願うところではないか、目に見えぬものとして、我々の心の中に甦ることが、それが御身の夢ではないか、――――そうだ大地よ 目に見えぬものとして甦ることが」(ドゥイノの悲歌)


第三祝福は地上に天国を建設すると言う外的行為だけではなく、リルケの言うように観察という内的行為を通して、自然からの委託を我々の心を通して永遠の世界につなげる重要な責任があるのだと思っています。


死者は肉体を脱ぐとその繊細な霊的感覚に驚くと言います。これが一粒の砂を見ても千年、飽きないと言った文師の体験した世界なのでしょう。


人間の霊体に刻まれた人生体験には良いものもあれば思い出したくないようなこともあります。文師は真の愛の大切さを繰り返し強調します。また霊界の空気は愛だとも言っています。


「人類歴史において、真の愛を完成すれば、政治、経済、文化的問題はもちろん、すべての紛争と葛藤問題もきれいに解決できるはずです。今日世界人類が抱えている全ての難問題は真の愛の完成によってのみ根本的な解決が可能なのです」。


真の愛で愛されると、その愛が恨み、憎しみ、悲哀、絶望、すべての心情の傷を溶かすと言うのです。祝福を受けると白い衣が着せられるので傷が見えなくなるとか、聖酒を飲んだら罪が消えると言う人がいますが、私は真の愛を体験する時こそ、つまり本当に愛し愛された、その真の愛の中で心の傷は消えていくものだと思っています。
蕩減復帰とは真の愛の心情復帰のことなのです。


文師の膨大なみ言葉の中には矛盾するような文章も多々見られます。また経済や政治的な言動に関しても常に正確に把握して指示したとも思えません。だからと言ってメシア性を否定することは出来ません。


昨今の分裂論争を聞くにつけ、文師の神性と人性に関しても、オモニは三位一体だから神そのものだと言われるがまま、ただ信じるのではなく、もう少し心を落ち着かせて判断することが大切なことのように感じてなりません。


こういう話があります。ある時、文師が階段から落ちて怪我をしました。 「メシアの怪我は我々の不信仰の蕩減を受けたのだ」と、教会長は全員の悔い改めを促す説教をしました。 


信仰とは体験に基づく主観的なものです。信徒に強要することもできるし、自分だけで静かに条件をたてることもできます。或いは私のように何も感じなくて軽いけがでよかったと思う人もいるのです。起こる事象は如何様にも受け取れると言うことです。全員が右に倣えの信仰観に安心を感じている信徒ばかりではありません。


メシアの使命はいろいろあるようですが、私は人間的な側面の文師が好きなので、ジャンパーを着て、ラフな格好のありのままの文師に惹かれるのです。私にとっては真の愛を、身をもって教えた文師だけで十分です。そして好きなみ言葉を読む度に、そこに文師が生きていて真の愛の心情が言霊となって流れてくるのです。

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