我を見しもの、神を見るものなり

最近話題になっている未来の組織論のティール組織理論に影響を与えた
ケン・ウイルバーの内在神について考え方を紹介します


コトバは不思議です
思考とはコトバの繋がりのことです
このコトバに命(みこと)があったというヨハネ伝は言霊のことを語っています
日本は言霊の国だと言われてきました
それは言葉に神の霊が宿っていると言うことです
其の言葉を話すのが人間です


光のない宇宙開闢前の暗黒状態に「光あれ」と言われた神の言霊が凝固して
光と言う物質化現象を起こしました
これが言霊論的な創造原理です


明るい、輝き、光に纏わる言霊が凝固したものが太陽であり
可視できる人間の目と太陽から来る光と切り離すことが出来ないのは
人間は其れを認識する立場だからなのです


ところが人間は三次元の中に住んでいるにも拘らず思考法は二元論なのです
それは主体と対象を認識するものがコトバであるが故
立体的に物事をなかなか捉えられないのです
ここに大きな誤謬があることに気が付く人はあまりいません


相対関係の中で認識すると全てを私と私以外に分けてしまいます
この固定化された私という意識のことを自我と呼ぶのですが
人間が自我に主体を置く限り相対圏を抜け出ることは出来ないのです


そして最も重要なことは二元論では自分自身を対象化できないので
自分が誰であるかと言うことに気が付かなくなってしまうのです
自我もまた一つの対象であるということを忘れ固定化してしまい
二元論の罠に陥ってしまうからです


四位基台とは黒板に書かれた二次元の世界ではありません
神は主体である自分が二元論的に対象化して理解する存在ではなく
主客を超えた立体的三次元存在として現れる存在なのです


このことが分からない限り
天上に神を探し求めることから逃れることが出来ません
自我が対象を見る時
見ている自分の意識に気が付かない限り
立体的な神の実在に気が付くことは出来ないからです


東洋の哲学はそのことを
「大いなる意識」「真我」「私の私」と呼んできました
相対関係を脱却した意識に根差せば対象を超えた意識の世界が開け
そこでは分節することが出来ないという不二一元の世界が現れます
その境域の神の状態を表現した言葉が聖書の「あってあるもの」なのです


私を見つめる私の意識に留まること
四位基台の中心にある神とは上位を指す概念ではなく
内的で立体的な中心を指すのです


その観点から見れば心の中心にいるのは通常の自我の私でなく
私をさえ見つめる眼差し「目撃者」となるのです


その目撃者を良心と呼び
自我と良心の関係父子の関係と呼んだのです
父子の関係は外にあるのではなく既に自らの内にあるのです


そのことをもう少し具体的に説明しましょう


肉的五感を通して授受する主体と対象の関係
例えば「見ること。聞くこと。触れること」
この動詞で表現される行動の中に心情が現れます
主体である私が対象である花を見るとします
見るという行為を通して「美しい。綺麗だ。優しい」
という感情が心情の中に現れます
この感性が神と繋がっていることに気が付かない限り
人はどこか遠くに神の心情をいつまでも妄想するのです


神は身近にいるのです
これが真理でないとすれば神と人間とは何の関係もないことになってしまいます
肉体は神を実現する器以外の何ものでもないからです


大自然が、どれ程、雄大であったとしても
それらは人間の肉体を産むための138億年の環境基盤にすぎず
一人ひとりの持つ肉体こそが宇宙の結晶であり傑作品なのです
それは神が宿り、神の心情が現れる乗り物だからです


神は遠くにいるのではなく
日々あなたの中に共にいるのです
だからイエスが言った通りなのです


「我を見しもの、神を見るなり」


静かに瞑想を通して内面に降りていくと
澄み切った鏡のような世界が開けてきます
その鏡に映るものが世界であり
あなたはそれを静かに見つめる大いなる意識なのです

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