神様はどこにいるのでしょうか

神様はどこにいるのでしょうか


信仰は神を求める生活です。天地創造の神、イエスが出会った神,文師が出会った神はどこにいるのでしょうか。無限の宇宙の遥か遠くに思いをはせて祈る時、神はそこにいるのでしょうか。


それを知るためにまず必要なことは「私」とは何かを知ることが何よりも大切になります。哲学的に表現すると存在は「我」と我以外の「非我」に分けられます。つまり私以外は全て私ではないと言うことです。ところが神においてはその「我」と「非我」は同じものなのです。それをインド流にいえば真我と呼びます。


では神はこの「私」にどのように接してくるのでしょうか。キリスト教は基本的に神と被造世界と言う主体と対象の二元論に分けて考えますから、多くのキリスト者は祈りの中で神を対象化して語り掛けようとします。つまり「私」の外に神を置くような相対的なイメージです。


ところが東洋思想においては瞑想が中心となります。瞑想においては「私」がなくなる無の境地に入ることを教示しますが、瞑想の本質は「私」の中に浮かび上がる様々な思いを見つめる眼差しがあることに気が付くことなのです。


人は「私」の中に浮かび上がる無数の思いと、すぐに自己同一化してしまいます。特に悲しみや怒りのような思いには全身を震わせながら、その思いや情の塊となり怒りそのもののようになる人もいます。


ではその悲しみや怒りは「私」なのでしょうか。血気、怒気に我を忘れまさに怒りそのものになっている状態のときに、その状態を別の角度から見つめている眼差しに気が付くことが出来るでしょうか。もし出来るとすれば、その人はかなり心が浄化されていると言えます。なぜならそれが「良心」と呼ばれるものだからなのです。


文師は「良心」は神に勝る、「良心」は先生に勝ると言われたのは、神がどのようにして人間の心の中に介在してくるかと言うことを教えているのです。


神を対象として外部に相対化する世界から神を内部に迎えて「私」を通して流れてくることに敏感に気が付くようになると人は神を迎える宮を心の中に準備できたと言うことになるのです。


貴方が見るもの、聞くもの、触れるもの、それは目に見えない神が見える「私」という実体を通して現れてくるのです。文師は其れを「神を着ている」と言いました。人間は神の共鳴体なのです。どこか果てしない無限の彼方にいるのではなく、貴方の直ぐ傍、内部にいつもいるのです。


それが感じられないのは神を外部に設定して崇拝することが習慣化してしまったからです。訓読が何故必要かと言えば、言葉を通して見えない神があなたの内部に共鳴することを訓練させてくれるからです。


文師が出会った神がみ言葉の中に生きているので、それを読む「私」が共鳴運動を起こして感動を誘い涙が溢れてくるのです。
宗教はこうして一人一人が神の実体となる時にその使命を終えるのです。


「私」こそが、神を実体世界に迎える唯一の基地であり、そしてその神の心情に共鳴しながら生きることが人生なのです。


最高の礼拝は目の前にいる人の心に向かって手を合わせるところから始まります。
それは真の愛が謙遜になっている「私」を通して流れるだす出発点ともなるからです。


「我」と「非我」がこうして愛によって結ばれるとき神(真我)が下りてくるのです。


そしてその最高の形が男女の中に現れると言うのが「宇宙の根本」思想なのです。


「ピリポよ、こんなに長くあなた方と一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。・・・わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい」ヨハネ福音書より


「今日人類は神様を対象的な存在として信じておりますが、私たちは、そのような信仰の対象として追及する神様であることを要求してはおりません。生活的で実証的な主体としておられる、その神様を願っておりますし、私たちの事情と生活の全ての事実と通ずることができ、別れようとしても分かれることが出来ず、時間時間を共にすることのできる神様を待ち焦がれています」文師の祈祷文より

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