アダムの「意」とは

原理講論にこのような記述があります
「人間に対する神の直接主管とは具体的にどのようなことを言うのだろうか
神を中心として、アダムとエバが完成して合成一体化し、家庭的な四位基台造成することによって、神と心情おいて一体化となり、神を中心としたアダムの意のままに
お互いに愛と美を完全に授受する善の生活をするようになる時、これを神の直接主管と言う
」原理講論・直接主管圏


この「アダムの意のままに」を真の父母やアベルに置き換えた体制が統一運動でした
アダムの意に従うことが神の直接主管に入ると言うこの教えは今
絶対信仰・絶対服従という言葉となって内部の引き締めにも使われています


ではこの「アダムの意」とは命令に服することなのでしょうか?
創造は神が人間を通して命令することだったのでしょうか?
もしそうならばこの世界は神の独裁的な世界になってしまいます


文師の言葉を総括すると神が被造世界を創造し人間を創造した目的は
「対象の為に全てを注ぐことだった」と繰り返し語られています
対象に価値を置くことが真の愛だとも言っています


その観点から見れば「アダムの意」とは自分が主体となって
対象に対しての絶対信仰・絶対服従と言うことのほうが腑に落ちます
ところがいつの間にか此れが真逆になって
中心者に服従することが神の意であるかのようになってしまっているのです


蕩減と言う教義を半世紀以上実践すると自己の自律性や主体的意識というより
誰かに従属することが信仰となりその結果が無思考状態をうむのです


上述した「アダムの意」とは神の意であり神の意の本質は
対象に完全投入する在り方のことではないのでしょうか?
従ってアダム的人物とは対象に最大の価値を置き
対象を何よりも貴重視する人間でなければならなくなります


宗教組織の腐敗は信徒を自分に従わせるところから始まり
それが既得権となり権威となると
その権力の中で対象である信徒を駒のように使い始めるのです


文師の出会った神は対象に完全投入した神なのです
この対象中心主義が「為に生きる」ことに繋がり
その為の最小単位が家庭だと言うことなのでしょう


家庭の長である「アダムの意」に従うとは
家長として妻や子を自分に従わせるのではなく
家長は全力を投入して家族の為に全てを注ぐこと
これが先例をたてるということでしょう


妻が夫から神のように愛された時
其の愛は実体的な感性として子供にも流れ
其の愛の流れが神に直接繋がるということです


神がアダムに与えた「意」とは独裁体制を構築するための位階制組織ではなく
上の者が下を支える逆さピラミッドの組織のことなのでしょう
何故ならそれこそが父母の心情だからです

×

非ログインユーザーとして返信する