真の愛と自己中心性

「ではこの愛の病気はどのようにして始まったのでしょうか。
この病気の始まりは、そもそも自己中心の思いによって齎されました。
自己中心こそが堕落の動機となったのであります」

歴史的父母の日1977・4・18


「我々人間の全ての特徴は、神からきているのであります。
われわれは、人間には利己的な傾向があることを知っています。
これはある一時期、神ご自身が自己中心であられたので自然なことなのです」

人間に対する神の希望 1973・10・23


産まれたばかりの乳児は自分と他者との境界線が明確でないので
自己と言う意識は希薄です
これが暫くすると舐めるという行為によって自他の境界線が引かれていきます
自分の指を舐めることと母親の乳房を舐める時の感覚の違いを知るのです


幼児期の対象認知に関して私は三木成夫の「胎児の世界」が非常に参考になりました


彼は人間が懐かしさや面影を感じるのは細胞の中に
地上の全ての生命進化の記憶が含まれているからだ言い
その証拠を胎児の十か月の胎中生活の成長過程で実証するのです
そして幼児期の最大の特徴は誰もが「私」を中心に回っているという
自己中心状態から始まるのが人間だというのです


幼児は自分が笑えば周りも笑い、自分が泣けば周りが心配し、あやしてくれる
もし幼児が他者の存在との関係性に気が付かず自己意識のまま成長すれば
世界中は「私」中心の自己中心的な人間で溢れてしまうことでしょう


「神も一時期自己中心的だった」と文師が言うように
人間も最初は自己中心性から始まるのです


では原理でいう成長期間とは何を成長させることなのでしょうか?
「アダムとエバが完成して合成一体化し、家庭的な四位基台を造成することによって、
神と心情において一体となり、神を中心としたアダムの意のままに
お互いに愛と美を完全に授受する善の生活をするようになる時
これを神の直接主管と言う」
原理講論・直接主管圏


人間が成長期間を完成すれば神と心情一体となりアダムの意のままに愛し合う
善の生活をするようになるという定義なのですが
気を付けなければいけない点はアダムの意のままにという言葉でしょう


なぜなら統一運動はアダム的人物の意のままに従うことが
堕落性を脱ぎ本然の人間になる道だと教えられてきたからです


原理の儒教的要素とはこうした文言にも表れています
それはアダムの意のままに従うアベル従属思考が
成長期間だと思っている人が多いからです


アダムの「意のままに」とは「神の意」であり
神の意は「対象に全てを注ぐ意識」だと置き換えてみれば
アダムは対象により多くの価値を置くことだということになります


成長期間とは取りも直さず四大心情圏の愛を体験することです
それは「私」中心の意識から対象を意識する「私たち」の意識に目覚め
個として社会的に自立するための必然的なプロセスなのです


自己中心性から対象の存在に目覚めることで
「私」が「私たち」になる為の自立を促す力を愛だと言ったのは
心理学者のアドラーです


彼は愛を成立する為の心構えに言及して
愛する時は相手が自分のことをどのように思っているかは
一切気に留めてはいけないと言い
その理由を愛は相手に対して愛をひたすら与えることによって
「私」から「私たち」になることだからだというのです


自分が愛しても相手が振り向いてくれないかもしれない
与えた愛が戻ってこないかもしれない
愛することを恐れる人は自分が裏切られたくない
傷つきたくないという思いが生じるのは
自分のことを意識しているからだと言うのです


主語が私なのです


ではどうするのか?
ただひたすら愛することに徹すること
相手が自分を愛してくれるかどうかは
相手の問題だとアドラーはいうのです


神の創造の動機は愛の心情をひたすら対象に注ぐことでした
その対象である人間が神を愛するかどうかは
人間に与えられた責任分担だというのが原理的な成長期間の意味でもあります


それを文師の言葉に置き換えれば
与えて、与えたことも忘れる」対象中心主義のことなのでしょう
家庭内でいえば父母が子供を愛し
親の愛を受けた子供に愛の種が芽生えると
自己中心的だった「私」から周りの兄弟に意識がいくようになり
兄弟愛を通して「私」から「私たち」に成長していくのです
そしてその愛の成長の実りが男女の愛に集結していくのでしょう


子供であれ妻、夫、全ての人間は「私」という
自己中心性から成長しながら対象の中に愛を見ることによって
神の宮となっていくのではないのでしょうか


この観点から見れば自己中心性は堕落性本性ではなく
自己の本性に目覚めて行く成長への必然的プロセスだともいえます
間接主管圏とは生命の基にある肉体の成長に伴って生じる
自己中心性の象徴でもある肉的本能を愛で主管できるまでの
「私」から「私たち」へと成長する期間のことだとも捉えることが出来ます


愛(心)による主管性が立てば肉体の本能は自然に神の血統に
相続されていくようになっていたのです


アダムの意のままにと言う言葉に含まれる創造原理の人体組織論は
医学を勉強された劉協会長の人体生理学の知識内で書かれたものでしょう
最新の学説では細胞自体に内在する個々の情報は頭脳を通過しないことが
証明されています


つまり個々の細胞自体は独自の情報経路を持っていると言うことです
換言すれば神の命令は直接、個々に降りてくると言うことです


原理講論の理想世界を真の父母による主管された統一王国として考えるのは
こうしたアダムの意のままにと言う意味を王の命令と拡大解釈したからです


アダムの意とは主体は対象に価値を置くことによる対象中心主義のことだと理解すれば
愛の理想世界は上位下達の階級組織ではなく
対象に価値を置く共生、共栄の世界だと言うことになります


自己中心性は否定するものではなく主管するものです
それは愛の他者性に目覚めることによって誰もが到達できるものです
幼少時は限りなく愛されること、愛を受けることが成長の秘訣なのです


良いお年をお迎えください!

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