言語統一の疑問点

今の若者には分からない事件が50年前に起きた三島由紀夫の割腹自殺です
当時の社会情勢とりわけ全共闘世代には衝撃的なことでした


三島の文学や死に関することを論じた著作や論文は
今も途切れることなく世に送り出されていますが
自決の年に語った「無機的な、空っぽな、ニュートラルな、
中間色の、富裕な、抜け目がない、ある経済大国」
になるであろうという
予言めいたコトバは今の日本の現状を的確に言い得ています


三島は守るべきものは日本の文化であり
文化こそが人間の精神性の証でもあるとも述べています


文化や伝統はそれぞれの国における精神の遺産です
世界の統一は歴史上、武力でも、思想や言語によってでも
未だかつて一度として実現したことがありません
それは国や民族の文化の多様性までも征服することは不可能だったからです


例えば原理講論には言語統一の必要性が書かれていますが
世界言語が韓国語になれば確かに意思疎通は容易かも知れません
しかしその時には俳句も和歌も日本語の文化遺産は
跡形もなく消えていくことになるのです


家庭盟誓も韓国で唱和するのがしきたりになっていますが
韓国語に精通していない人にとっては
言葉の持つ微妙な精神性は伝わってきません


民族の遺産でもある文化とは言葉を核としたものなのです
もっと言えば文化とは言語や感性を通して顕れた神ともいえるのではないのでしょうか


周知のように統一運動は文夫妻を真の父母として心情文化の依って立つ根拠としています
ところが晩年、文師はその絶対的権威を、真の父母にのみ向けるのではなく、
ひとり一人がその位置に上がることを願っていたようにみえるのです


にも拘わらず未だに韓夫人に対する忠誠心である「孝情」を求めていますが
これを継続すれば行きつく先は中世ヨーロッパの絶対君主制なのでしょうか・・
これでは、自らが「氏族のメシア」になることを強調した
晩年の文師の言葉とは相通ずるものをみいだすことができません


民族の精神性がその地域の特性に応じて文化として残されているのは
民族の言語を通して呼応した神の霊が人間の精神に
豊かな文化の華を咲かせたからなのです


歴史の遺産として相続された民族のエキスである伝統と文化の継承を
否定するのではなく受容し多様性を認めたものが本当の心情文化でなければ
言語を失った日本人は文化の伝統を喪失した
まさに無味乾燥な味気のない民族になってしまうことでしょう


韓夫人を前にして踊る青年たちの歌やミュージカルを見聞きするたびに感じるのは
たった一人の人間を喜ばせようとすることだけの文化の虚しさです


韓国語を学び韓国の伝統を知り孝情の精神を持つことは否定しませんが
組織の在り方、歴史解釈においても全てが韓国中心主義になっているのは
どこかおかしいのです


自然界が多様性を持つように言語も文化も多様性の中にこそ
神の独特な霊性の発露があるのではないのでしょうか?
一つに統一することばかりを強調するのではなく多様性を認めた統合性にシフトしない限りこの運動は限界を迎えることになるでしょう

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