蕩減思考の問題点

統一運動に参加した初期の先輩諸氏の中に見られる特徴の一つに蕩減思考があります。
彼等は分別と言う言葉を使うのですが、この分別と言う表現は人類始祖の堕落によって
神とサタンが対応する矛盾状態になったのでこれを切り裂くことを分別と呼び
その象徴的な物語がカインとアベルでした


アダムとエバの堕落によって神とサタンに相対することとなった人間を二人の息子に譬えてアベルは神の表示体とし、カインは悪の表示体へと分別したと言うのです。
善と悪と言う矛盾した状態に陥った人間を元に戻すことを蕩減復帰と呼び
この場合は悪の表示体であるカインが善の表示体であるアベルに従順に従うことによって
復帰されるという教えです。


ところがこのアベルとカインの一体化はヤコブとエソウにおいては
アベルのヤコブがカインのエソウに対して苦労の道を辿り、謙遜になり
カインの兄に従順に屈服して勝利したと言うのです


教会ではアベルである指導者の指令に従うことがカインの立場だと教えられ
一般信徒は指導者に従うことが美徳とされ
自己否定することが当然のように教えられたのですが
これが教会信徒の蕩減思考の始まりでもあったのです


カインとアベルは元々は人間の内面の矛盾性を指摘した表現でした
善悪の矛盾した状態になった堕落人間の心を如何に善のみに向かわせるかと言うことです
しかし人間の心を分別して善のみに相対することがそんなに簡単に出来るのでしょうか?
西洋の二元論はこうした矛盾を善なる神側と悪なるサタン側と定立して
悪に対する闘いは正義として来たのです


ところが仏教では分別と言う言葉は単に善悪に分けることだとは教えていません。
仏教の言う分別は人間の道徳観念ではなく意識そのものが立ち上がることを指します
意識とは思考のことであり、人間がコトバを語ること自体が分別作用だというのです


つまり人間の意識の基本にあるコトバは物事を分別することだと言うのです


自我が立ち上がるとコトバによる思考が始まります
思考は全て自分と自分以外とに分けます
だから自からを分けると書いて自分と言うのです


夜、熟睡している時が無分別なのはそこには自我意識がないからです。
自分と言う意識は目覚めると同時にどこからともなく忽然と湧き上がり
覚醒中はその自意識が心を占領します
分別はまた必ず比較する意識が生まれますから
自分と違う他に対しての差異化が起こります


美しい人、逞しい人、楽しい人、悲しい人、感じがいい人、悪い人等々
あらゆる喜怒哀楽の感情と共に分別意識が心を占めるのです
しかしここで注意しなければならないことは
仏教ではこの喜怒哀楽自体は善でも悪でもないということです
怒りや嫉妬は悪ではないというのです
これを原理では堕落性と教えるのですが
原理講師は捉え方が間違っているのです
なぜなら神も又嫉妬し怒る神だからです
善悪とは人間の心に主管性を立てること正しい判断力のことを言ったのです
「正しいことをしているのなら顔を上げるがよい・・・」
カインの心に怒りや嫉妬心が湧いて来た時
カインがそれを主管できるかどうかが試されたのです


人間の個性完成とは責任分担として与えた間接主管圏のことであり
間接主管圏とは文字通り主管性を立てる成長期間のことです
神の性相である喜怒哀楽を相続する人間は時と場合によっては
感情が爆発する時もあります。
モーセのエジプト人殺害はその端的な例です
イエスが神殿で怒りながら屋台を壊し暴れた表現も同様です


心の中に浮かび上がる情感や性質自体は堕落の結果生じたのではないのです
このことが分からないと蕩減思考に陥り
自らを堕落人間として全否定するようになってしまいます


アベルとカインとは人間の内的世界の表示です
目覚めると同時に、人間は全てが自分だと思ってしまい、
眠っている時に生かしている根源存在を忘れてしまいます
生きていると言うのは自我意識からみた立場であって
本当は生かされていると言うのが正しいのです。


そのことを端的に顕しているのが生命現象です。
生命は全体と切り離すことは出来ません。
空気、水、光、鉱物、植物、動物、人間に至るまで
これらは全体で一つの生命体なのです
このことを悟ることを仏教では無分別智と言います
また華厳経では縁起によって全ての生命は一つの数珠のように
繋がりあっていて切り離すことが出来ないと教えます


西洋の思考法がロゴス的だと言われるのは
事物との関係を個的な因果関係で認識するからです
全体から個を切り離し、それぞれを分別してしまう西洋に比べて
東洋では関係性を重要視し、全体は切り離すことのできない
一つの生命体であることを強調します


アベルとカインの一体化とは東洋的心象風景でいえば
分別心から無分別智に至ることを示唆するのではないのでしょうか?
自我が全体と一つであるという不二一元の境地を道元禅師は
心身脱落と呼びそこから無自性、無我、無心の世界が開かれると教えます


西洋哲学のアリストテレスやデカルトは分立した個々は
相互還元が出来ない二つの実体として説明します。
主体と対象は互いに切り離されているので独立した個人の前には
それぞれの存在風景が別個に広がっているとみるのです。
この二元論的世界観では神も同じように対象的存在として
二元論的に認知されてしまいます。


東洋思想はこうした二項の対立を如何に超えるかと言うことを
修行の目標に置いてきました
禅の公案に見られるような意味不明な応答が師と弟子との
間で公案として交わされるのは全て因果関係で物事を切り離して見るのではなく
如何にして全体と一致するかと言う心的状態を全身で感じるかと言うことです


例えば「山は山であって山でない」と言う公案があります
山を私が見ることによって、そこに実際の山を経験的に感知するのですが
禅仏教の観点から見ればその眼差しは分立した立場で見ているにすぎないのであって
分立する以前の眼差しではないと言うのです。


無分別的認知、超越的認知、これを般若の智慧と呼び
その観点を取得し、悟ったものは、心の本質は思考や観念に還元するものでなく
心とは個人の心でもなく、心とモノに分立する前の
真の実在的リアリティーのことだったと喝破できるのです
それを「無位の真人」と呼びました


初期の原理原本で文師も同じようなことを述べています


「我々は様々な波動の中にいるため、波動に対する感性が鈍くなっている。そのため、
神様から伝わって来る波動を敏感に感じることが出来ない。それゆえ、有無の境界となり得る静かなところを求め、そこで修養や祈祷をすることによって、その波動に対する感性を高めようとするのである。こうして無我の境地に至れば、神様の存在を実感すると同時に、神様の力が自分に作用し、その感覚によって、神様と繋がっていると言うことが分かるのである。従って仏教でいう無我の境地を求めることにも一理ある」


蕩減思考とは善悪を分別し善のみに生きようとするのでしょうが
この思考法を続けるといつまでたっても二項対立の概念から抜けることが出来ません
主体と対象に分ける四位基台思想の本質は中心から見れば主体も対象も同等なのです
蕩減思考で主体と対象に分ける位置に留まっている限り内と外の一体化された
「私が神の中にいて、神が私の中にいる」という境地には到達できないことでしょう


全ての宗教が神を信じているにも拘らず何故一体化できないのか?
それは神を二元論的世界に於ける思考概念で理解しようとしているからです

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