愛と性

凡そ文明が爛熟すると人間の精神性が廃れ
物質主義に偏り、風俗が惰弱になり、快楽主義に陥る
男女は媚態を恥とせず風紀の乱れは人心を荒廃させる


この根本的要因が愛と性の問題にあることは異論の余地がない


文師の晩年はこの愛と性の問題を語ることが日常だったと聞く
原理本体論の骨子が絶対”性”にあることはよく知られている
原理講論では正しい愛と性が堕落によって失われてしまったと説明する
キリスト教の素養のない日本人でも堕落論の説明を受けると否定できないのは
その問題が神話ではなく突如として自分の事として現実性を持ってくるからであろう


これを「宇宙の根本を求めて」と題して晩年に発表した絶対“性”の問題は
人間の究極的な本質を指摘したまさに最終的な根本思想だった


この文章を読んだ時、それまで読み漁った文学書や芸術論の回答が
ここにあると感動したことを覚えているのは
性の問題こそが真理を求める求道者にとっては常に大きな課題だったからである



以下青春期の不躾な独りよがりの顛末を二、三紹介したい


鎌倉に在住されていた澁澤龍彦は人間の悪徳の根拠に
堕天使の問題があることを分かっていた稀有な作家である


フランスの背徳文学で有名なマルキ・ド・サドの翻訳者でもあり
日本のサド裁判では性描写が過激だということで有罪になっている
澁澤は一貫して人間精神の闇や暗黒な部分に焦点を当てた
一般には特異な怪奇文学者としても知られているが
彼の本質は人間の心の闇を暴き出すことだった


サドは堕落論でいうところの堕天使の性情を徹底的に描き出し
その過激性が法廷問題となり事実、バスティーユの牢獄で囚われの身となり
幽閉された中でより一層その異常な性の世界を文学で表現した
性の快楽を極限まで解放すると快楽殺人にまで至るその描写は
まさに架空の文学だけが表現できる世界だった


サドの神への反逆思想は当時のフランス革命前後の社会にも大きな衝撃を与えた


鎌倉の西洋風の構えの澁澤邸はその外観から
何か異質な空間が漂うような独特な雰囲気を醸し出していた
書斎に伺うと見たこともないグロテスクなオブジェがあったこと
かと思えばその脇に洒落た品の良い調度品が並び
恰も聖俗が共存しているような不思議な印象を受けたことを覚えている


堕落論の話も既に知っていたかのように話が堕天使に及ぶと
天使は単に嫉妬だけで人間を誘惑したというレベルではなく
今まで聞いたこともないような天使論の話が続き
自分の知っている堕落論での限られた天使の知識が
いかに浅薄だったかということを思い知らされた


澁澤はヨーロッパ精神の闇の部分を研究しただけあって
その博学な知識は悪の本質を徹底的に追求したサド文学の翻訳者としての
面目躍如そのものだった
「悪徳の栄え」を転じて美徳の天使になろうとした澁澤龍彦の言葉が今も忘れられない


「自分の願望は善の天使になることだよ」
と語られるも、性に対する見解はどちらかと言えばギリシアのエピクロス的な
快楽主義を肯定しているように思われた


当時は宇宙の根本思想も語られていなかったので堕落論を超えた
本然の愛と性のあり方まで提示することは叶わなかった


その澁澤氏が懇意だった京都の伏見在住の稲垣足穂は
「弥勒」という仏教的な慈悲と性の関係を独特な表現で文学的に表現していた
日本文芸大賞を受賞して文壇ではそれなりに著名だった足穂を京都に訪ねた時
伏見の自然に囲まれた趣のある静かな館に住んでいるものとばかり思っていたのだが
実際、訪ねてみると、ごく普通の木造の簡素な家に驚いた


足穂は尼さんだった奥方と二人で住んでいた


家の中には小さな机と広辞苑が一冊あるだけで
これといった家財道具もなくこれぞ今でいうミニマ二ストそのもの
実に質素な佇まいだった


得体の知れない学生風の男が突然訪問したにも関わらず
浴衣姿で現れると「そこに座りなはれ」といって
差し出した原理講論を手にすると目次を暫くじっと見ながら
「大切な事が書かれてますなあ」と言っただけで
そこからは独特な性感覚の話が展開した


作品にも残っているが足穂は男女の性の器官をP感覚(男)、V感覚(女)として表現し
最終的には全ての中和体としてのA感覚(アヌス)が最も本質的だと説明する


「肉体の感覚器官は究極的なPVよりAの方が透明性があって宜しい」と


ドロドロとした人間の愛欲や性欲から飛翔した天使的な世界に憧れているようだった
両性具有のアンドロギュヌスの話から天女の存在まで梵天の一大絵巻を
見せらされているようだった


ルシファーが堕天使だというだけで天使界に対する知識もない
自分の底の薄さがこの時も身に沁みるようだった


この稲垣足穂を尊敬していた作家に三島由紀夫がいた
三島は自分が尋常ではない行動をする時が来る
しかしその時、その真意をわかってくれる人物は稲垣足穂だけだと語り
その理由に足穂は男性の秘密を全て解き明かした稀有な作家だと称賛していた


1970年、市ヶ谷の自衛隊本部で割腹自殺をしたという知らせを受けた足穂は
「三島さんは本当の意味で人間の根源的な懐かしいものを知らなかったようですね」
と寂しげに述懐したという
懐かしいものとはPVに男女が分立する前の
中和体としてのA感覚の世界だったのだろうか・・・・


こういう文学者たちの愛と性への探求は日本のみならず海外でも
二十世紀の最後の芸術のフロンティアだった


D・H ロレンスの作品やヘンリーミラーの作品には愛と性の解放こそが
精神の解放に繋がるかのように描かれている
心理学者のウイリアム・ライヒや左翼の思想家も同じように
彼らは抑圧された性を解放することが人間の解放に繋がると信じて
彼等の論文や作品は今でも大きな影響を与えている


話をもう一つ加えれば


仏教では空海が愛と性の問題を理趣教の中で説いている
天台宗の開祖、最澄が理趣教を学びたいと空海を訪ねた時
空海が断ったと文献には残っているが
その理由が最澄に返信した手紙の中に詳細に書かれている


しかし理趣経が愛と性を肯定している稀有な教えであるがため
空海はこれが一般化することの危険性を考慮して
最澄に教えなかったと私は勝手に思っている


愛と性に対する理趣教十七項目の教えは
後に空海の密教曼荼羅に十七仏として描いている
空海は曼荼羅の本質が愛と性にあり、迂闊に触れれば
魔性の餌食になる可能性を知悉していたのだろう


男女の平等性をベースにした家庭規範からの自由
フェミニズム、ジェンダーフリー、LGBTと呼ばれる運動が
文化の仮面をかぶって社会に根付き始めて久しい


この文化マルクス主義こそが
もしかしたら最後に乗り越えるべき障壁なのかも知れない


文先生が到達した絶対‘性‘の世界は愛と性の中に
神が生きて顕現するという革命的な思想だった
「こんな近くに全ての真理があった」という言葉はまさに文字通りの意味であって
男女の性を通して生きた神が顕れると言う教えは宗教者においては
革命的なことだからである


しかしそれはまた諸刃の剣でもあり
正しい愛と性の認識なしに勝手に振り回すと
国家の盛衰や文明を破壊するほどの魔性が秘められているからだろう


1999年に日本でも男女参画社会基本法が制定され
以来、全国の地方自治体では様々なジェンダーフリーに関する条例が推進されているが
個人のエゴイズムを奨励する文化マルクス主義が
人間の愛と性の本質である家族制度を崩壊させる
堕天使文化の究極的な表れだと知る者は少ない


現代社会に浸透しつつある文化マルクス主義
宇宙の根本が神の絶対‘性’を通した絶対愛であると主張する神主義


思えば祝福運動の本質を知ることなく
歪められた反社会的な行動が先行してしまったことで
愛と性の本質を伝えきれなかったことは慙愧の念に堪えない


文化マルクス主義との最後の闘いは依然として目の前にあり
その戦いに勝ち抜くためにも今一度
愛と性の本体論を武具として身に付けることが何よりも願われる

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