私たちの神

なぜ文師は血統をあれほどまでに強調したのでしょうか?
それは神を「私たちの神」にしたかったからです


人間の堕落は神からの離反です
神の存在がどのようなものなのか分からなくなってしまったのです
これが宗教が無数にそれぞれの形態を有する原因です


神は唯一絶対この宇宙を創造された方であると
概念化して言葉で語ることは誰でも出来ます
しかしその概念は一人ひとり微妙に違うのです


昔、勝共活動をしているとき共産党の青年組織であった
民青の学生たちと路上で論争したことがありました。
彼らは一様に「神などいるはずがない」と
神の存在を否定するのです


私はよくその言葉をそのまま彼らに返しました
「あなたがいないと思っている神はどのような神がいないのですか?」
「いないと言われる神の概念を私に説明してください」
このように尋ねると殆どの人は明確に答えることが出来ませんでした


人はそれぞれ無神論者も信仰者も自分なりの神を思い描いて
そのイメージを信じたり疑ったりしています


文師の業績は何かと言えば神は心情の神であり
どこか空想の中で思い描かれる存在ではなく
父母の心情をもった実在だと言うことでした。
そしてその心情にどのように触れることが出来るのかと言うことを
生涯をかけて詳細に教えてくれたのです


そんなことは誰もが知っていると言われるのでしょうが
これが何度も力説した血統の重大さに繋がっているのです


「血統は縦的につながるものであり、横的にはつながらない」
血統は夫婦の間ではつながらないというのです


神は血統を通して現れ
それは父母と子女の縦的関係だと言います
従って親と子の間には神の血統が流れてくるのです
即ち切っても切れない神の心情が実感できると言うことです
悪人でさえ自分の子供に対して愛情が湧くのは
血統を通して父母の心情
神の心が流れるからなのです


では血統につながらない夫婦はどうすれば良いのでしょうか?
しかもこの男女関係が原罪の根になっているのです


文師は神の生きている心情を教えてくれました
復帰摂理は文師の心情路程でもあるのです


「あなたが苦しみ悩むときあなたと共に涙する神を思うのです」
「悲しかった神の友になりたかっただけなのです」
「そしていつの日か天地創造をなした栄光の神の喜びに触れるのです」


涙の神から本然の喜びの神まで
まさに人生をかけてこの心情の神を伝えようとしました


もともと男女は神の血統から生まれたのですが
サタンに主管されたという意味は神の心情と分離してしまったと言うことです
実際の肉の父母が違う男女が神の心情と絶対愛を体験するためには
方法は一つしかありません


それは同じ父母から生まれたと言うことが
血統の絶対条件となるからです


縦的に繋がると言うことはまず夫婦になる前に
同じ父母の子供になる必要があるのです
それが生みなおされる為の一連の祝福儀式なのです



「絶対愛は、相対を絶対視する所で成立するのです。その場で、男性が女性を絶対的に愛し得る主人になり、女性が絶対的な愛の主人になるのです。ですから、その愛の主人は、自分によって見いだされるのではなく、相対によって見いだされることを、はっきりと知らなければなりません」

 「絶対愛は、どこで探し出すことができるのでしょうか。絶対性から絶対愛がつくられるのです。それがなければ、絶対愛を探し出すことはできません」

愛は対象との関係の中からしか現れてきません
関係の中で互いに身も心も完全投入するとき
愛の神が現れるということを文師は発見したのです


真の父母の子女になった立場から血統を引き継いだ祝福の男女が
絶対性を通して絶対愛を探すと言うことです


その条件が同じ父母を持つと言うことです
その条件の上で血統を引き継いだ男女が結婚すれば
真の父母の血統になると言うのです。


霊肉が一体となることが出来るのは夫婦しかいません
そこに全力投入すれば絶対愛の主人である神が臨在するというのが
文師の究極の教えでした


「気が付いてみればこんな近くに神はいたのだ」

相対との関係の中で築くべき最も大切な責任分担はその男女が
心情一体化して「私たちの神」を臨在させることなのです


復帰の悲しみの神から本然の喜びの神へと
夫婦で神の悲しみを解放させてあげるのです
それは言葉の概念の神ではなく実感の中で直接触れて生きる神なのです


「私たちの神」が夫婦の中で共有できれば
その共鳴作用は家庭の中に広がりやがて氏族の神になり
民族の神、国家の神そして天宙の神となるのです


その実りが人類に対して親の心情で接することが出来るかどうかなのです


その競争をしようと言うのが氏族メシア運動であり家庭単位の連合体なのでしょう


「私」を通して探してきた神が男女の絶対性を通して
「私たちの神」になるのです


それを真の父母と言ったのです


イエスは「我を見しもの神を見るものなり」と宣言しました
文師は「私たち(父母)を見しもの神を見るものなり」だったのです

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