神に所有される者

私たちはサタンと言う言葉を使うとき
イメージの中に堕天使ルシファーを思い浮かべるのでしょうが
現実にその堕天使を直接見たものはいません


また客観的にどのような個的存在なのかと言うことに関しても
曖昧なイメージを各自が思い浮かべるだけです


無形なる悪の本体とされるサタンを
失楽園の物語上の登場者として思い描き
自分とは関係のない世界の存在者として
考えているのではないのでしょうか


ではサタンはどこにいるのでしょう


無形とは空気のように偏在するということです
無形なるものは実体をもって現象化するというのが原則です
心が体と言う実体を通して現れるよう
サタンも現れるとしたら人間の心を通路としてしか現れないのです


堕落論にはこのような記述があります
「サタンの対象は霊界にいる悪霊人たちである
そしてこの悪霊人たちの対象は地上にいる悪人たちの霊人体であり
地上にいる悪人たちの霊人体の活動の対象は彼らの肉身である」

即ちサタンは肉身を通して現象化されるというのです


では肉身のどこにサタンが相対するというのでしょうか?


文師は自己中心性がサタンが相対する条件となるといいます
しかるに子供や赤ん坊は誰よりも自己中心的です
それは成長していない段階においては
肉身の本能のほうが勝っているからです


血統と言う言葉に呪縛されると人間は堕落性を
生物学的に引き継いでいると理解してしまいます


例えば幼児の自己中心性は堕落の結果とみる信徒がいますが
本当にそうなのでしょうか?


肉体は遺伝子によって形成されています
遺伝子の特徴として近年話題となった言葉に
利己的遺伝子と言う概念があります
利己的遺伝子とは自己に似た遺伝子を増やすことを目的とする
個体よりも遺伝子を優先させる学説です


この考えで行けば自己中心の思いを否定しようとしても
自己中心性が無くならないのは遺伝子自体の中に
自己保存と言う本能があるからだと言うことになります


もしそれをサタンの性質だと呼ぶとすれば
人間は肉体を持つことが自体が悪となってしまいます


文師は嘗て「神も宇宙創造前は一時期自己中心的であった」と述べています
内的な意味で言われたのか肉身の持つ自己保存性の機能として言われたのか
明確ではありませんが、どちらであったとしても
存在の本質的な自己中心性は創造前にあったと言うことです


肉身に湧きあがる欲望に悩み苦しんだ信徒は沢山います
アウグスチヌスは肉体の中に利己的遺伝子があることを
知る由もありませんでした
大切なことは欲望自体は悪でも善でもないと言うことでしょう


欲望を自己中心と思いがちなのは
肉の本能を満たそうとすることが
自己中心的にみえるからなのです


この問題を明確にする回答が
間接主管圏という創造原理だと思っています


神は人間に何故、成長期間を与えたのでしょうか
それは成長期間を通して人間が肉の欲望を中心とした
自己中心性から愛の原則である他者中心性へと成長することを
願われたからなのです


幼少時は本能的な肉身の欲求に従いながら
成長を重ねて行くのですが
ある時期に肉身の本能を超える段階が来ます
肉身の自己中心的な欲望が転換され
対象から来る愛の他者性に目覚める時のことです


文師は其れを初愛の情を感じる思春期だと言いました


心の中を占領する初愛の情とは
愛が自分の心の中に四六時中、住み始める体験です
見えない神の愛が見える実体と重なって
心を占領し始めるこの思春期の体験こそが
実体として感じる神の現象化の始まりなのです


創造原理の二性性相と言う概念が
異性と言う実体を通して
自分の心の中に住み始める神の実在性を
人間と言う実体を通して体感する時期なのです


自分以上に相対を思い、慕わしい情を高じて行けば
自然に完全投入する神の愛の相続者へと
成熟することが出来たというのです


それはまた自分の中に湧きあがる肉の欲望は
自分の為の欲望ではなく相対を喜ばせるためにあると言う
愛による他者性への相互関係のことだったのです


そのことを象徴的に表現したのが
聖書の「戒め」の意味だったのでしょう
肉身の自己中心性から
愛の心情によって肉身を主管出来た時
その「戒め」が終わり
祝福の日を迎えるはずだったのです


祝された男女の関係の中には神が臨在し
創造の目的はそこで成就したのです


文師の晩年のみ言葉に
蛇は天使長のことではないという一節があります
膨大なみ言葉の中からあなたがそれを見つけた時
失楽園の本当の意味が明確になるのかも知れません


堕落論はあくまでも聖書の解釈です
神話とは科学的実証性がない時代の知性レベルで
真理を象徴的に捉えた話なのです


遺伝子やメッセージ物質の物理的概念が当たり前の現代では
新たな天使の表現があって然るべき時が来ているのですが
余りに斬新な解釈は混乱を引き起こす可能性があるので
ここでは詳細は述べませんが
真理に対する新しい見解は必ず
時代の知的レベルに則して現れることでしょう


無形なる神の心情は私の心を通して現れます
神によって所有されている実感を日々の生活の中で
感知することが人間の責任分担だったのです


自分自身が神に所有される心的レベルに達すれば
自己の五感が神と共有していることに気が付くのです
人間は誰しもが神に所有されているのです

×

非ログインユーザーとして返信する