祝福に関する考察 その1

韓日祝福家庭で離婚したひとたちの話を聞くと
その殆どは相手が原理基準には程遠い人だったということです


酒を飲み煙草を吸い教会にも行かない
ましてや真理を求めるというレベルでもない
原理観の定まっていない信仰初期の段階のような相対者だったというのです


なぜこのような悲劇が起きたのでしょうか?
その一つの原因が数合わせの祝福だったと言う証言がなされています


日本の女性を韓国の田舎の嫁不足にかこつけて募集して
韓国の女性も行きたがらない処に嫁いで行った人たちは
確かに並々ならぬ決意をして祝福を受けたのでしょうが
現実と理想はあまりにもかけ離れていたのでしょう
それでも蕩減と言う言葉を胸に納めて健気に頑張った
日本の女性たちの信仰には胸を打つものがあります


数合わせ祝福でどれほどの日本人女性が辛い思いをしたのか
詳細な統計や資料があるわけではないので定かではありませんが
結婚という人生の最も尊い出会いを
「主の国の選民と一緒になれるのだからあなたは本当に恵まれている人ですよ」
と諭され、不安な思いを抱えながらも希望に胸を膨らませて渡韓したことでしょう


しかし実際に破断した人にとってはその現実は酷いものだったのです
数合わせが目的となった祝福にはどだい無理があるのは当たり前のことです
余りの劣悪な環境に耐えられなくなって夫を殺害までした話を聞くにつけ
改めて祝福とは何かということを真剣に考えさせられました


原理ではいったん受け入れた相手を拒否すれば神に反逆するものとして
その信仰姿勢を糾弾されるので祝福は何が何でも守り通さなければならない
と言う意識が強いはずです
加えて祝福を壊すものは永遠に救いがないと教えられているので
確かにじっと耐え忍ぶしかありません


それでも初期の頃の祝福を受けた者たちはそれなりの信仰生活をした者同士が
マッチングされたので一定の信仰基準はあったのです
しかし数合わせ祝福結婚はその信仰も未熟でそれが悲劇に繋がったのでしょう
失敗して離婚した女性が帰国して二度と教会に行かなくなる現状を
落後者のように見捨てるには余りに心痛いことです


原罪を解放することばかりが強調され
愛しあって結婚することが出来ない祝福は
本当に幸福を全ての人にもたらしたのでしょうか?


すべては責任分担を果たせなかったからだということなのでしょうが
愛のない責任分担とはこれ如何に?でしょう
またこういう悲しみを背負って失敗した人たちの救いは誰がするのでしょうか


韓鶴子総裁は原理基準のない相手であっても
条件を立てたと言うことにして子女様と一般人の結婚を容認しました
教会幹部によると「このことによって今後こういう二世以外との
結婚をする人たちへの道を開いたのだ」と説明がありました


ならば何故祝福家庭は必死になって二世同士にこだわっているのでしょうか
確かに同じ思想を共有している家庭の子供ですから
血統的に純化されていると思いたいのでしょうが
血統の本義は愛の継承であって生物学的なものではないはずです
祝福家庭だから愛が純粋だと誰が証明するのでしょう


真の家庭の子女様でさえ無理やり指名された結婚は失敗しています
初愛の情の大切さを一番強調したのは他ならず文師でした


原理を知っていようがいまいがその相手を愛して結婚した子女様たちは
真の父母によって特別に許されていますが
一般の祝福者は許されないとするなら創造原理は万民に平等な真理でないことになります
人類一大家族理想と言いながら家族の中で優劣を決めているようなものだからです
愛を大切にして相対を自分で選んだ子女様の結婚をもう一度よく考えてみるべきです


祝福権を巡っては三派がそれぞれの見解を述べていますが
元来、堕落していないアダムとエバであったなら
そこから生まれた子女は本家と分家のような形で広がっていきます
その時祝福権は本家の人間にのみ与えられるのでしょうか?


もしそうであるならば本家である文一族だけがその祝福権を持ち
それが代々永遠に引き継がれるという一種の王権神授説のような特権となります


では私たちが受けた氏族メシアの称号とはなんでしょうか?
メシアの使命は究極的には長子権を得ることによって堕落圏から
解放されるわけですから氏族メシアとはその長子権の土台の上に
メシアの特権である祝福の権能を相続することではないのでしょうか
でなければ何のために氏族メシア運動をしているのか分からなくなってしまいます


もともと結婚とはこの世でも親族や親しい友人が一同に集まり
彼らの基台の上に行われています
祝福家庭とは原理的には本然の復帰された父母の立場に立ったと言うことです
氏族の父母の立場に立った祝福家庭が神に取り次ぐことが
出来ないならば私たちは何を取り次ごうとするのでしょう


祝福家庭が自分の名前で神に祈っているのに
自分の名前で自分たちの子女を神に報告し
祝福できないとはどういうことでしょう


我々が目指しているのは創造原理の世界です
従って真の父母の伝統を相続したと自負のある祝福家庭は
堂々と自分の子女を祝福する時が来ているのかも知れません

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