依存から自立へ

如何なる存在も関係性を抜きにしては存在できないというのが
授受作用と言う概念です
授受作用とは言い換えれば関係性のことを指します


神の愛の心情は家庭と言う関係性の中で確立されるというのが原理観です


前回ではイエスはその家庭環境が破壊されているにも拘らず
どうして深い神の愛に触れることが出来たのかという問いかけでした


私はその秘密が授受作用に対する正しい理解にあると思っています


例えば私が花を見る
見るという状態の中では
見る私と見られる花は対等の位置にあります

そして最も重要なことは見ているという状態の中に
心情が現れるのです


「なんと美しい花なのだろう」
「この色合いは素晴らしい」
「ああ花が散って枯れてしまった」


神が心情の神ならばこの私が花を見るという
ありふれた日常の中に生起する私の心の状態に現れなければなりません
つまり神を心情の神だと何度も教えられてきたのですが
自分がその心情の中心人物であることに気が付いていないのです


それは何故か?


蕩減時代は自己を否定して対象との関係性を結びました
自分を完全に否定して対象である中心者に委ねることが信仰でした
それは又、あらゆる宗教が辿った道でもあります


献身や出家は自分を大いなるものに委ねて生きることによって
自己を確立しようとしたのです
ところがこの習性が染みついてしまったのか
自分の心情は堕落した心情だと思い込み自己否定をすることだけが
信仰だと思うようになってしまったのです


授受作用は主体と対象に分けるのですが
本来の考え方は主体も対象も神の前では対等なのです
授受作用は主体と対象の各位のことではなく
関係する状態のことを指しているのです


自立した「私」が相手の為に自分を投入することは
自己否定ではありません
自己投入とは自分の心情を相手に注ぐ自己を肯定することです
客観的に見れば自分を捧げているように見えるのでしょうが
そこには何ものにも依存しない創造性を持った
自立した絶対主体としての「私」がいるのです


誰かに依存する状態は成長途上の人間のことです
神の心情を日々感じる人間は自立しているのです
平和な世界は自立した個人が肯定的に神性を
積極的に与える世界のことでしょう


それはダイナミックで活気にあふれた世界でもあり
対象に全力を投入する世界なのです
自立した個人が授受作用をすれば理想の夫婦になり
理想の家庭を築くことができ理想社会を形成できるというのが原理観です


神に所有される人間とは自分が主体となって
自身が神の目となり耳となり
対象に対して愛を与えている状態のことなのです


見るという動詞
聞くという動詞


この動いているという動詞のなかに神が現れるからです


一瞬一瞬に関係する現象を通して感じるあなたの心情以外に
どこに神が現れるというのでしょうか?


イエスはその関係性の秘密を知っていたからこそ
「我を見しもの、神を見るなり」と神を自己の中に重ねたのです


家庭は確かに愛を育てる関係性の基盤です
併し関係性は家庭以外においても
全ての存在を維持する基本なのです


野の花に神の心情を重ね
貧しいものに神の心情を感じ
奢れるものには怒りの心情さえ感じたのがイエスです


イエスは神の愛の心情が関係性の中に
流れていることに気が付いていたのです
まさに創造原理の実体ではありませんか

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