新しい光の下に・解放された精神

宗教の教典は聖書、仏書に限らず人間の閉ざされた心の隷属状態から
解放し精神に於ける自由を与えるものでしょう


エジプトで文字通り奴隷状態であったイスラエルの民を率いたモーセは
紅海を渡りシナイ山で与えられた十戒でイスラエルに光を与えました


同じようにキリスト教は十字架の死に象徴される愛と復活によって
人間を精神的な隷属状態から解放しようとしました
ユダヤキリスト教に限らず宗教の目的は人間の精神的解放を教えるものです


では統一運動に於ける精神的解放とは何を言うのでしょうか
原罪のあるなしが論議されていますが
精神的解放の観点から見ればこの運動に於ける最も重要な教義は
祝福を受け原罪が解放されると精神に自由と解放が齎されると言うことでした
ところが実態を見る限りにおいてはそうとも言えない複雑で混沌とした祝福家庭が
世界中に増えるばかりで結果だけを見れば精神的苦痛を抱いた家庭も少なくないのです


検証とは真理を求める人間の最も真摯な態度であるにもかかわらず
狂信的な信仰の隠れ蓑を着てしまうと真実を観ようとしなくなります
たとえ矛盾や間違っていることがあったとしても
絶対信仰を貫くのだと言う信仰観だけが独り歩きをするからです


百年後の人間たちがこの原理やみ言を読んだとき
あたかもガリレオが天動説を否定したような
その時代の知的認識から見れば到底受け入れ難い
非常識なことも出てくる可能性があるはずです


既に進化生物学では科学的なゲノムの分析を通して
人類は500~700万年前から存在し始め
4万年前までユーラシアに住んでいた旧人類であるネアンデルタール人のDNAの一部を
現生人であるホモサピエンス(20~30万年前)が遺伝子の中に相続していることが
科学的なゲノム解読によって発表されています


アダムとエバが人類始祖で堕落したので原人になり
そこからネアンデルタール人に進化しホモサピエンスになったと言う見方は
考古学的にも人類学的にもその根拠は限りなく希薄なのですが
こうしたゲノム解読によって実証化されてしまうと新たな原理観が必要となってきます


聖書の歴史は人間の精神性の解放を象徴的に顕しているにも拘らず
それを血統問題として生物学的に応用するとこうした問題が生じてくるのです
教条主義的な信仰者は教典を文字通り信じるので如何なる意見や解釈も
決して容認しないので中世のように正統と異端の論争になるのでしょうが
実に無益なことです


失楽園の話には精神的な神話の物語として捉えないと
辻褄が合わない場面が多々あります


聖書に関する研究の一つに聖書批評学があります
聖書批評学とは聖書各書の成立年代、著者問題、正典性、起源
伝達経緯、統一性、内容分析などを出来る限り科学的に分析する学問です


批評学が全て正しいとは言いませんが
こういう客観性を持つことが重要なことだといいたいのです


たとえば批評学の観点から見れば失楽園の描写は
当時中東地域に蔓延する多神教の神である蛇に対抗する唯一神との
宗教上の象徴的記述だとも読み取ることができます


カナンに於けるバール信仰や女性神アシュラは多産崇拝の神でした
性に対する考えはユダヤのヤハヴェとは対極にあったといわれます
アシュラは木で象徴され、その木の下で性的儀式を行っていたというのです
どだい蛇がコトバを語ることは出来ないはずなので原理では天使だったと
説明するもそれはキリスト教やユダヤ教に対する神話の説明です


原理では摂理の中心宗教がユダヤキリスト教だったので
あくまでも聖書に新たな光を当て彼らが神の摂理の中心となることを
願われたのであって神話そのものが事実を照らしたことなのかどうかは
誰にも分からないことなのです


だからこそ神話はあくまでも精神的な隷属状態から
人間を解放させる象徴的な物語だと冒頭で言ったのです


ではどのように人間始祖を考えればよいのでしょう
ゲノムが解読されて人類の祖先がホモサピエンスではなく
それより以前に数多くの原人の存在があったということが分かってきました
聖書が神の啓示であるとすればアダムとエバは神の霊性が人間に宿る最初の人間
と理解すれば進化の過程はその土台だと考えることが出来ます


生命が下等生物から高等生物に進化してきたのは事実であり
人類も同じように進化の過程を通して神が導き
進化の最終的段階になって神の実体対象として
アダムとエバを役事したと考えれば疑問は解消されていきます


自分の身体の中心にある臍を見たアダムとエバは
其れが何を意味するのか知らなかったのでしょうか?
進化生物学を持ち出すまでもなくアダムとエバには肉親がいたのは明白な事実でしょう


馬鹿げた問いかも知れませんが事実とはそういうことに応えることなのです


私の理解ではアダムとエバ以前の原人を含めた環境圏のことを
天使圏的霊性の基準だと言ったのではないかと思っています


神は本陽性と本陰性の二性性相であり
その神に似せて被造世界は創造されたと言うのなら
被造物である天使だけがなぜ単一性の男性的なのかということにもなってしまいます


堕落論では天使との不倫なる性関係と表現しています
異性への欲求は肉体的な現象を伴うのです
ところが天使だけは二性性相になっていないのです
女性の天使がいない霊的存在である男性格の天使が
不倫なる性関係をどのようにして行動に移し
また天使に男性器があるとすればそれは何の為にあるのか
と言うことにもなってしまいます
繁殖も出来ない無形実体世界にはそれらの機能は不必要だからです


文師は晩年新しい天使の概念を語っています
下記に以前投稿した内容がありますのでお読みください


大切なことは聖書も統一原理も新たな光の下で
見直されなければならないと言うことでしょう
それはそこに書かれてあることを否定するのではなく
より科学的に万人が理解できるようにすると言うことです


宗教の教典は教条主義的に絶対視するものではなく
人間の精神的隷属状態を解放する為のものであり
自由と解放された人間こそが神の愛に向き合うことが
可能となるということでしょう


「異様なシャーマニズム信仰からの卒業」
           以前の投稿より


清平を中心とする異様なシャーマニズム信仰が
多くの信徒にとっては絶対的になっています
目に見えない霊的な世界の権威を信じることが中心になってしまうと
真理は知性を離れて盲目者の手の中に落ちてしまいます


宗教が知性を無視して信仰と言う隠れ蓑に入ってしまうと
信仰している対象に帰依することが全てになってしまい
そのことによって客観的に見つめることが困難となり
自分たち以外の考え方に対して排他的になってしまうのです
これが宗教の統一が難しい大きな要因の一つです


原理講論には
「信じると言うことは知ることなしにはありえないことである」
と知性の重要性を強調し
「真理は唯一であり、永遠不変にして絶対的なものである。
しかし聖書は真理それ自体ではなく真理を教示してくれる一つの教科書として
時代の流れと共に漸次高められてきた神霊と知能の程度に応じて
各時代の人に与えられたものであるために時代によって変わらざるを得ないのである
従って我々はこのような性格を持っている教科書そのものを
不動のものとして絶対視してはならないのである」
と書かれています


神霊や知性は常に恒常的に進歩するのです
信仰者にとって一番気を付けなければならないことは硬直化した信仰観です


文師も神に対して執拗に問い続けて原理を解明したといわれます
同じように我々もみ言や原理に対して新たな視点から問い直しても
なんら問題はないと言うことです


科学的に検証すればするほど原理講論の内容や
文師の語った歴史観の一部においてさえ
事実に即していないところが分かってきます
受動的に受け入れることが信仰ではなく
その内容が正しいかどうかが大切なことなのです


真理は時代の神霊や知能と共にまさに進化しているのですから
より現実的に応用することによって新たな真理の光を見つけるべきなのです


例えば堕落論に関して晩年の文師は全く新しい解釈をしました


「エデンの園でアダム・エバが堕落する時の蛇とは誰のことですか?
蛇は天使長のことを言うのですが、そうではありません。
蛇は何かというと男性の生殖器だという結論を出すのです」
第十二回世界統一国開天日


「蛇とは何かというと男性の生殖器のことを言っているのです。終わりの日が来たので
今回そのような面のことを全て教えてあげるのです」
御言葉選集304巻 1999・10・10


どだい無形なる天使が人間の赤ん坊を育てることは不可能です
仮に子育てを天使に任せたということが本当なら神は親としての
最も重要な父母の愛を与えることを放棄したことになり
それは四位基台の創造原理の否定になります。


堕落論に突如天使が出てくるのは聖書の解釈だからです
復帰はキリスト教が中心だったので聖書に
新しい光を当てることが重要だったのでしょう
創造原理の四位基台のどこに天使が入る余地があるのか教えてもらいたいものです


人間の肉体には臍があります
それは幼児は臍のうを通して母親の胎中から生まれたという証拠なのです
アダムとエバも全ての人間の先祖なのですから
同じ肉のカラダを持っていなければなりません


従って天使が赤ん坊の時から育てたのではなく
肉の親がいたと推測することは理にかなったことです
こうした神話解釈も今後は新たな生命科学の観点から検証されなければなりません


堕落論は神話の内容が根本になっていますから
様々な解釈が可能ですがもし蛇が天使長でなく
天使長的霊性を持った人間だというのであれば荒唐無稽な抽象的な話から
具体的な人間同士による三角関係だったと言うことにもなります


そうすればエバが二人の男性と関わった心情の縺れを蕩減するためには
男性が辿った心情を逆の立場から復帰する為に
二人の女性である妾と正妻の心情の立場に立って
蕩減する摂理があったことも理に適います


これらの真偽は今後より深く研究される課題の一つになることでしょう
また追い出されたカインがどこからか現れた妻をめとり
誰も彼を打ち殺すことがないように印をつけたとあります
そのカインはまた町も建てたと聖書にはありますが
僅かな期間に町が出来るほどカインが何百人も子供を生むことは出来ません。
原初の人間に対する考古学的或いは文化人類学的な考察も必要となってくるでしょう


実際、土を耕したり、家畜を飼うことは
社会共同体がなければ不可能なことです


真理をより知的に納得できる段階に引き上げる研究を疎かにしてしまうと結局
目に見えない霊界信仰が中心となり個人として成長した羊飼いになるのではなく
只の羊の群れで終わってしまうのです


これでは万人を納得させる真理とは言えなくなり
極東に現れた異様なシャーマニズム宗教に留まってしまうのです


文師も嘗てこう言われたことを憶えています
「自分が宗教家としての道を選ばずに物理や生物学に専念していたら
もっと多くの真理を科学的に論証できたであろう」


人間は神の直接的な実体対象です
宇宙の謎は人間がひも解いていく為の刺激的な対象的事象なのです
盲目的な従者には進化と言う宇宙のプロセスが見えていません
神自身も常に進化発展しているから創造が途切れないのです


神話は神話として尊重しながらも
より現実的に知性の光に照らし合わせて見つめることは
神話自体を否定するのではなくより深い洞察を与える事にもなるのです
解明されていない多くのことは其れがその時代の知性に合致したとき
あらたな光の下に輝きを得ることが出来るのです


何故なら神の真理は永遠にあってあるものだからです
それは人間によって発見されることを常に待っているのです

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