天国の王座で家臣を待つのが真の父母なのか?

如何なる時代も一世紀ぐらいが過ぎると
過去に対する検証が必要となります
それは過去を知らない世代が胎動してくるからです


その新しい世代に対して教育や歴史の真実を
できる限り客観的に正しく伝えないと
歪んだ思想や思い込みがその世代の中心となってしまいます


教育が客観性を失うと往々にして
時の権力者にとって都合の良い歴史観や思想だけが真実のようになるのは
権力者の常套手段だからです


バイアス(偏見)のかかった思想が次世代に浸透すると
その国の若者はその観点からしか物事を判断することができなくなってしまいます
「嘘も百回言えば真実になる」と言うのは
自分たちにとっての解釈を正当化しようとする権力者の自己保全意識の何よりの現れです


例えば教会では被害者と加害者の関係を
アベルとカインと言う独特の言葉で表現します
しかしこの考え方も気をつけないと
カインはアベルに従うことだけが正しいかのような一方方向的な理解になります
アベルにとってはカインの立場に立つ人間に服従心や従属心を植えつければ
堕落性を持った罪人だと言う自虐感の中で意のままに従わせることができるからです


もともとアベル・カインとは心の世界を象徴したはずです
良心(アベル)によって本能(カイン)を主管できない心の状態を言ったのです
肉体の持つ自己中心的な本能は神から来ているにもかかわらず
肉体の持つ本能をあたかも悪であるかのように教育されるのですが
本能は悪ではなくそれを主管できないことが問題だったのです


嫉妬も怒りも堕落性ではありません
神自体も嫉妬心を持ち怒るのです
聖書にはその事例がいくつも出てきます
何よりも文先生は誰よりも自分は短気で怒りやすかったと言っています


成長期間とは自由を基盤として体の持つ自己中心的な動物的本能から
心を主体とした精神性(愛)を育て心の主管性を創造していく期間のことです
神の心情圏には無数の心情の思いが一体となっているのでしょう
仏教的に言えば「阿頼耶識」という心の基となる蔵があると言うことです


「阿頼耶識とは種として刻々変化しながら成長し、成熟すると世界のあらゆる現象を生み出し、その果実としての印象を種として自己の中に潜在化する。」


その全体心情を個別心情にするものが言葉です


生まれた赤子は全体心情の意識の中にいるのです
言葉を覚えることによって心情圏が明晰になってきます
これが全体意識から個別意識への流れなのです
それは全体から分立を始める神の子として
親から離れた独自存在の始まりだからです


体を通して分立された人間は意識も全体から分立するのです
その時起こる意識が事物を比較することができる対象化意識です
比較ということは差異を意識できるというのです
そこに違いを見出す優劣意識が嫉妬の始まりとなるのです
その意識状態が起こるので神は戒めという形で
予めアダムに教えたのでしょう


その意識状態を主管できない限り人間の自由と創造性が
個として完成できない原理があったので
神は間接的にしか主管できなかったということです


嫉妬や怒りは堕落性本性ではないのです
堕落性本性とは神の立場に立って主管性を立てられなかったことを言います
即ち個別化された神の無数の心情圏を主管できなかったということです


これが私たちの意識に浮かび上がる無数の思いに
いとも簡単に主管されてしまう心の状態なのです


韓国と日本の立場に置き換えるとより鮮明になります
世界が帝国主義による植民地時代だったという時代背景を客観的に俯瞰できないと
日本が韓国を併合した事実は一方的な植民地支配となるのです
ましてやそれを現代の倫理観で推し量れば民族を否定する許されざる侵略になります


人間の倫理観が成熟していなかった古代はまさに弱肉強食が
当たり前の力の論理が民族や国家の興亡を決めていたのです
過去の歴史を現代の倫理観で断罪すれば如何なる国もそこから逃れることはできません


日韓併合の負の部分に対して日本は金銭的に
また歴代の首相が日本を代表して幾度となく謝罪し金銭的代償も払ってきました
しかし現在に至るまで韓国は決して許そうとはしないのは
全体を俯瞰することを避けて被害者の立場の負の部分で一方的に見るからです
即ち原理でいうカインの罪を指摘して謝罪と蕩減を要求するのです
そしてアベルには絶対に従うという片方の側の教えだけなのです


統一運動は対立構造を解決するための原理として
すでに半世紀以上に亘って運動をしているのですが
依然として世界中で憎しみの連鎖が止みません


統一運動の発祥地である韓国の国民も現状だけを見れば
国を挙げて憎しみを煽っているようにしか見えません
反日の狼煙は政府の中枢に根を下ろし
恨を継続する教育を学校で何度も強調すれば
たとえ世代が交代しても反日の姿勢は変わらないからです


韓国の教科書を研究したことがある人には
日韓の歪曲された内容に少なからず驚くはずです
偏った教育の恐ろしさはそれ以外の考え方が出来なくなり 
ものの見つめ方に柔軟性がなくなってしまいます
韓国の日本大使館前の慰安婦像を守ろうとする青年たちがそのことを証明しています
また最近ではハーバード大学のラムザイヤ―教授の慰安婦に関する
学術論文に対して徹底的な批判を加えていますが
自分たちのものの見方だけが絶対に正しいと言う屈折した感情論が中心となっています
残念なことにこの件に関しても統一グループは
何一つ両者を融合するような見解を発表していません


検証が必要だというのは対立構造を乗り越える証が
全面に出てこなければならないということです
カインとアベルの対立関係を乗り越えた
まさにヤコブがエソウを屈服させたような事例の事です


ヤコブの子孫のイスラエルが選民と言われるように
韓国人が選民ならばエソウの立場の国民に対して
彼らに仕えその心を愛によって溶かしたのかということが問われるのです
統一運動の信徒が選民の代表なら同じように許し愛したのかということでしょう


加害者のカインが謝罪し反省しているにも関わらず
その罪を千年たっても忘れないとするならば
愛の原則である与えて忘れるという言葉は本物ではなかったことになるのです
お前たちは罪人だと罵り謝罪を求めるだけならば
そこにはなんの解決も生まれません
何よりも選民資格を失うことになるからです


上に立つものが下のものに対して
その足を洗う精神が根付かない限り真の父母思想は実現していないのです


真の父母とは最後に天国の門を閉める人間のことだからです
宗教の恐ろしさは崇拝することが救いだと思うことです
誰かを尊敬するのと崇拝は違うのです
尊敬は人が嫌がることを率先して行うことから生まれる心情です
崇拝は単なる上下関係を刺激するだけで従属者になる心情です


真の父母の心情とは悲しむ者
苦しむ者に寄り添う心情でなければならず
天国の王座で家臣を待つ心情ではないのです

×

非ログインユーザーとして返信する