下座に生きる人

私は幼い時は山で育ったので山の中に入ると
鳥の名前やシダ、キノコ、様々な樹木の種類を教えてくれた
父を思い出し
何よりも故郷に帰ったかのような
懐かしい感情に浸ることが出来ます


今は小さな島の住人なので打ち寄せる波の音を聞きながら
朝に夕に今度は母の面影を広大な海に感じています


自然は創造原理の世界です
言葉に形容できない美の宝庫であると共に
時に荒々しく厳しい顔も見せるのです


その自然は互いに支え合って循環しながら生命を維持しています
より上位のものが下位のものによって支えられている構造です


人間を自然界の進化の結果としてみれば
高度な知性や感情は
その進化の頂点にあるものでしょう


しかしその知情意は全て肉体を土台として可能な機能なのです


肉体は動物や植物を摂取し
植物は鉱物からミネラルを吸収しています


私が座っている椅子は床によって
床の下には土台があり大地が支え
大地は地球の重力によって支えられています


重力は私と言う存在の生命を支え
言葉を換えれば重力は私でもあるのです


空気や水も私とは別にあるのですが
私と言う生命を維持するために切り離せない
存在を維持する共同関係にあるのです


自然に見られる創造原理は
頭脳が一番上にあるかのように
位置付けられていますが


それはあくまでも下位のものが
土台になっているから成り立つ原則です


人間の意識がその原理に沿って
お互いが支えあえば
そこには完全な調和がもたらされるのでしょうが
堕落とはあるがままの創造の原則を歪曲化して
或る一部分に執着したことを言うのでしょう


その執着した意識の在り方を自己中心と言ったのです


この世の神サタンとは
全体が一つの有機的存在として
循環する創造原理の在り方を
自分を中心とした特権的階級的なものに
変えてしまった者を言います


権力者が陥る錯覚は
自分がその頂点に君臨し
その体制を維持して
下位の者に自分を崇めさせ
服従を強要出来るものと
信じていることなのです


神の宇宙創造は全ての栄光を
神自身が服従するかのようにして
対象である被造世界に
全力投入した愛の形を言うのですが


その神の対象に対する絶対服従を
自己に向けさせると
神の殻を被ったこの世の神である
権力者が現れるのです


歴史上の全体主義や独裁政権には全てその根底に
神格化された自己中心性があるのです


為政者の徳を見分ける唯一の方法は
頂点に立つ人間が一番下である
下座に降りているかどうかと言うことなのです
徳の中心である神は人間の体でいえば
足の裏になるのかもしれません


四国にいる詩人の坂村真民は
日本を訪れたマザー・テレサに感銘を受けて
「マザーテレサの足」と言う詩を詠みました

「テレビは
マザー・テレサの足を映した
素足にサンダルばきの足を
顔は労苦の為
深いしわが刻まれていたが
足には
マザーの豊かな情感が
じかに感じられた
こういう人に
日本の土を踏んでもらったことがうれしかった
史上最大の恵まれた日本になり
そのありがたさを
見失しなっていこうとしている
今の日本の土を」


尊いのは足の裏である/坂村真民


「尊いのは頭ではなく
手ではなく
足の裏である


一生人に知られず
一生汚い処と接し
黙々として
その務めを果たしていく


足の裏が教えるもの


しんみんよ
足の裏的な仕事をし
足の裏的な人間になれ


頭から光が出る
まだまだだめ
額から光が出る
まだまだいかん


足の裏から光が出る
そのような方こそ
本当に偉い人である」


貧しさとは飢えることではなく見捨てられる事だと言います
教会の内にも外にもたくさんの見捨てれた人がいて
私たちはそういう処に命の光を与えるものでありたいものです

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