実存的人間 神を知るとは

「ついさっきまで私は公園にいた。マロニエの根はちょうどベンチの下のところで深く大地に突き刺さっていた。それが根と言うものだということは、もはや私の意識には全然なかった。あらゆる語は消え失せていた。そしてそれと同時に、事物の意義も、その使い方も、またそれらの事物の表面に人間が引いた弱い符牒の線も。背を丸め気味に頭を垂れ、たった一人で私は,全く生のままでその黒々と節くれだった、恐ろしい塊に面と向かって座っていた」嘔吐(サルトル)


サルトルは「実存は本質に先立つ」として、本質(神)不在の哲学を構築しました。
嘔吐体験者はコトバの本質が脱落した「もの」を「ぶよぶよした、奇怪な無秩序の塊」
裸身のまま現出し、それが「嘔吐」を惹き起すと言うのです。
そこには偶然によって存在している事物はただ意味もなくそこに現前していると言う
本質脱落の考え方です。


しかしサルトルは神がいないと言うより
神を認識することが出来ない人間の言語による認識能力の限界を
正直に語っているのです。


理性による神の認識は今でも人類の見果てぬ夢でもあります。
科学は其れを証明するために原爆発の状態に近い環境を
莫大な費用をかけてスイスの地下に実験場を造って
今も素粒子の衝突を惹き起しながら物質の生成を探求しています。


しかしどれほど知的に存在の究極を突き止めようと思っても
それはある一面を理論的に論証するだけなのです
何故なら神は知的に認識する存在ではなく体験するものだからです


「論理哲学論考」と言う有名な書の中で言葉の限界を
哲学者のヴィトゲンシュタインはこう表現しています
「語りえぬものについては沈黙を保つしかない」
またブッタも同じように人間の知識の及ばない
形而上学的問題(神の存在)に対しては沈黙を保つように言います


漢字学者の白川静氏によると言語(コトバ)とは内なるものが外に現れることをいい、
其の限定的用法が文字であると言います。
例えば「言」は口の上に4本の横線が引かれているのは、
4本の線ではなく原型文字とされるのは「辛」というもので
取っ手の付いた鋭い針を象形したものだと言います。


其の鋭い針の下にある「口」はものを食べる口ではなく入れ物を指し、
すなわち神霊を入れておく容器のことであり、
従ってもしコトバに偽りや間違いがあれば
鋭い針で入れ墨の刑を受けなければならないといった当時の考えが
「言」というコトバの中に示されていると言います。
コトバは其の原形において非常に緊張した意味が文字の中に含まれていると
説明しています。


それでは「語」という文字はどうかと言うと右側の上に五という形があり、
これは頑丈に紐か何かで交差させた蓋を意味し、
外部から異物が侵入されない或いは影響されない言霊を守る形だと言うのです。
白川氏によれば言語とは従って神と人間をつなぐ最も重要なものであり、
コトバは即言霊であり神の発現だったのだろうと言います。


ヨハネの福音書冒頭にも「はじめに言葉があった。言葉は神とともにあった。
言葉は神であった・・・」。聖書は神が「光あれ」と言葉を発した瞬間に
無から有に転じたとあります。


まさにコトバこそが底知れぬ暗闇の深淵を切り裂き
隠れていた神が実体をもって出現したことの証なのです。
創造以前、未生の消息がコトバと共に創造生成の脈動を
人間の認識を通して顕現したとも捉えることが出来ます。


コトバの本質を実感として体験できた人間を
私は本当の意味での実存的人間と呼んでいます。
神はこの実存体験以外には証明できません。


実存主義者は神不在の実存を言いますが
それは不可知なるものに対するコトバに命が感じられなかったからです
「サムシンググレート」と言う「何か偉大な存在」と言うコトバが
生きたものになる為にはそのコトバに実存体験が伴わなければなりません。


救済の本質の一番目に心と体の一致の重要性を言うのは
心=コトバの実体化にかかっているからです。


自己と本質の結び目が切れてしまった状態から
その関係性を修復できたとき
生きた神が共にいる本当の意味の実存人間に生まれ変わるのです。


では神のコトバがどのようにして実存的体験に繋がるのでしょうか
それが肉体を通した感性による実感だと思っています


例えば相手の手に触れる感覚を知的に想像することと、
感覚で実際触れて感性で感じることには実存感覚が違います。


神や愛を知的概念として捉える限り実存感覚で感じることは出来ないのです
何故肉体に感覚があるかと言うと神を感じる為にあるのです


最近の言葉でいうとクオリアと言われますが
物に触れた時に感じるぬくもり感、温かさ、優しさ、
これらの感性が実は神に触れる実存感覚をもたらしてくれるのです


肉体は感性の箱舟です
日々の生活を通してあなたが悲しみを感じるとき
その悲しみが神の悲しみに繋がる時なのです
あなたが喜ぶとき、その喜びが神の喜びに繋がる時なのです


成長期間の重要な目的の一つは感性を育てること
神の実存感覚は成長し研ぎ澄まされた感性に直接感じられるものなのです


楽器を手にして一つのコード和音を奏でると
それぞれの弦の響きが共鳴して一弦の音とは比べることが出来ない
奥行の在る豊饒な音に代わります


人間も同じようにもともと感性を通して
神の心情圏が人間の中で共鳴するように創造されているのです


神が被造世界を創造したのは対象実体世界から喜びを得ようとしたのが動機です
愛と言うコトバの概念が自然界と言う実体を通して顕現し
人間の肉体はその自然界の全ての要素を含んでいます
その肉体を通して刺激を得る感性の中に愛が現れるのです


以下文師のみ言葉です


「私たちは寒ければ寒いというのを知って感じるのではなく。
寒いことを感じて知るのではないですか。
これと同じように神がいらっしゃるなら
神がいらっしゃることを皆さんが感じられなければなりません
細胞で感じなければなりません。その境地が問題なのです。
言い換えれば体恤的立場をどのように私たちが確定するのかという
これが問題なのです」


「アダムとエバの創造目的は第一に
アダムの体を無形の神様が着ることであり、
二番目は体を着ることによって振動的な衝撃が来るようにするためです。

言葉だけではだめなのです」


「愛は神様も一人で成すことが出来ません
愛は必ず相対的基盤を通じて成されるのです
愛はどこから始まるのでしょうか
自分から始まるのではなく相対から育ち上がっていくものです」


「神様を心の中に迎え、私たち人間が体の立場で完全に一つになることのできる
起源を造らなければこの悪魔の世界を清算する道はありません。・・・・
神様はどこか空中に遠く離れた神様ではありません
私たちの生活圏内の主体者として神様に侍らなければなりません
侍ると言うのは生活化天国時代を言います」


実存は本質(神)を含んでいるのです
サルトルは感性が本質に繋がっていることが感じられなかったのです
本質体験は肉体を通した感性の神との共鳴作用なのです

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