文家と天皇家

イエスを迎える数百年前、ギリシアで哲学の華が咲きました。プラトンは民主主義が末期的な症状をきたし機能しなくなってきた俗なる社会を憂い、再び聖なる霊的宇宙と統合するためには王権が必要であると主張しました。イデア界(霊界)と地上界(肉界)を統一させるための仲保としての役割を王制に求めたのです。


原理でいう共生共栄共義主義とはどのような社会を言うのか具体的なものは何も明確にはなっていません。言葉の響きからは、あえて言えば共産主義に近い気がします。共産主義は勝共理論等で問題点を鋭く指摘され理論的には既に破綻しています。特に人間の欲望に対する認識の甘さが、理想と現実の乖離を起こし、ユートピア思想は悲惨な結末となり理想は実現することが出来ませんでした。


人体が構造を持つように社会も何らかの構造を持たなければなりません。文師は李王朝のような伝統的な衣装を着て儀式を行うので、あたかもその王朝の復古を目指しているかのように見られる面も否定できませんが、おそらく具体的な第三祝福は後世の責任として我々に残したものと思われます。氏族メシアを勝利すれば国家が復帰され、やがて世界は真の父母を中心とした世界になるという抽象的な言葉だけが独り歩きをしていますが、おそらく誰もそれがどのような世界なのか思い描くことさえ出来ないのが現状です。


エバ国と言う教会独特の言葉で代表される国が日本であり英国でした。被造世界は対象としてのエバで象徴されるという原理観から見れば、神の霊統を地上に実現する国の見本が日本と英国にあると考えるのも理があるようにも思えるのです。その統治形態が皇室と王室です。


王制と言う祭政一致の制度はイスラエルの統一王国にもありました。特にユダヤ人にとってはメシアは油を注がれた者、聖別された者としての王のことを指します。メシア思想は古代イスラエルの終末論的歴史観に基づき新しい王国を待望した実体的な国家観でした。


イスラエル以外にも古代における王国は霊的ヒエラルキーと社会的ヒエラルキーを統合させるために王国の統治者は特別に天から授かった能力を持った者が時の権力を握ったのです。しかし皇帝や王の君臨も所詮は未完成の人間であったが故に、権力闘争に明け暮れ、古代王国は栄枯盛衰を重ねるばかりでした。


エジプトや神聖ローマ帝国における王や皇帝も結局は神の位置を象徴的に踏破したに過ぎなかったのです。摂理的にはイスラエルがイエスを受け入れ一体化して入ればローマでイエスが真の父母の位置に立ち神が実体として顕現するキリスト王国が実現されるはずでした。


近代文明は神の国とカエサルの国がより一層、明確に分断され、例えば英国の王室も女王は神の象徴ではなく、信者としてキリストの権威を地上で代理している大祭司の立場なのです。


日本の天皇制においては王位継承の霊統は血統が何よりも重要であると強調されて来ました。神武天皇の天皇霊の継承者は長子である男系による血筋に限り、それを継承するために大嘗祭と言う祭儀や儀礼通して何と2600年以上も続いてきたのです。これは文師が強調する血統の重要性とまさに重なります。神武天皇が最初の国造りを始めて以来、今上天皇で125代目となります。私見ではこの天皇制の在り方は偶然にあるのではなく神が日本と言う国を通して将来の真の家庭を中心とした国家建設の雛型にしようとしたのではないのだろうかと思っています。


その日本の天皇も憲法では「天皇は日本国の象徴であり、国民統合のシンボルである」と謳われています。原理的には天皇は国の象徴ではなく神の実体的象徴であるべきなのです。このことを真剣に問題視した人物が三島由紀夫でした。彼は戦後、人間宣言をした昭和天皇に失望して2.26事件を題材にした「英霊の声」と言う作品の中でその怒りを吐露しています。


処刑された青年将校・磯部浅一の獄中の言葉「などてすめろぎ(天皇)はひと(人間)となりたまいし」と言う義憤と呪詛の言葉が三島の思いと重なっているのです。三島の割腹自殺後、彼の作品を改めて読み直して気が付いたのは、彼は必死でこの地上における絶対なる神の現れを探していたように見えます。それが本然の神の象徴としての天皇制でした。三島は自分が起こす行動を分かってくれる人がいるとすればそれは唯一、京都伏見の稲垣足穂だと語っていたことを知ったのは後年、原理講論を片手に稲垣宅を訪ねた時でした。稲垣足穂は三島に欠けていた重要なことは彼のギリシアへの憧れがキリスト教に繋がらなかったからだ言われたのです。


さて最近の韓鶴子氏の見解によれば「真の父母が天と地と人類の真の父母であるということです。その前にも後にも天と地と真の父母はいません。それは相続者とか後継者と言う概念が無いということです。わかりますか?」そして息子達は大祭司だと言う見解を発表されました。イスラエルの預言者であり大祭司であったのはサムエルでした。サムエルは新しい王に油を注ぐ役割です。もし文師の息子たちが大祭司と言うなら祭司長の立場は神の実体的顕現ではなくなるのではないのでしょうか。


真の父母思想の根幹は血統を転換することによって全ての人間が真の父母になるという教えだと思っていますが如何なものなのでしょうか。真の父母とは見えない神の神性を有するのであって、決して神そのものではないはずです。血統の相続が王権の本質であり、その為には真の家庭の縦的継承が不可欠となります。


四位基台の完成は父母が神と三位一体となることだけではなく、子女の完成をもって成就するというのが原理の骨格です。三大王権とは具体的にどのような意味なのか。王位継承の必然性とは何なのか。こうした将来の国家像に関係する課題を真剣に議論する時が来ているのではないのでしょうか。


残念ながら国家復帰を謳うビジョン2020年にはこうした具体的な内容はほとんどありません。将来の国家ビジョンに関して、教学部はどのような国家像を持っているのか聞いてみたいものです。内容が伴わない言葉は単なるスローガンかプロパガンダに終わります。第三祝福はスローガンでは完成できません。


天皇陛下と皇后様があの福島の震災地を何度も訪れ、跪いて犠牲者や避難民と対話する姿勢を見ながら、心打たれなかった日本人は一人もいなかったはずです。真の父母とは一番苦しんでいる人たちの中に入ってその心情を共有する人のことです。


韓鶴子氏が真の母として何度も日本を訪れていますが、日本の指導者には喝を言いたいのです。何故、天皇家のように悲しむ人たちの目線の位置に立たせてあげる配慮が出来ないのでしょうか。一万人を集めての集会より、日本の悲惨な現場やあるいは兄弟たちの苦しんでいる中に、また日本人の一番関心毎である拉致被害者の家族に会うなり、母としての慈愛の方法はいくらでもあるはずです。自らがそうした悲しみの魂に触れる先頭に立つとき、信徒の共感を呼び、そこに文師の人類救済の切実な心情を発見するのは難しいことではないと思うのですが・・・・


デモクラシー(民主政治)の反対はテオクラシー(神権政治)と言う言葉です。王制は本来人類が作り出した最も理想的な体制なのですが、神霊を失うと独裁になり、自身を絶対化する専制君主に陥落する危険性を孕んでいます。煌びやかな宮殿を建て、有り余る宝飾品に囲まれると、王権の重要な資質である無私、自己放棄、万民の中に全てを捧げる精神が枯渇してきます。孝情も大切ですが、父母の心情、僕の体はいつの時代でも最も重要な心の在り方です。


理想家庭の中心者は韓鶴子オモニです。世界中の全ての祝福家庭の願いは真の家庭の完成です。母の使命は子供を断罪することではなく、その子供たちの成長と安寧の為に慈愛の心を注ぐことではないのでしょうか。慎ましい日本の天皇家の姿の中に血統を継承する三大王権の雛型を見るのは私一人だけなのでしょうか。

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