いつも私のとなりに神様が

「いつも私のとなりに神様が」というブログの表題を見るたびに
隣にいる神様のことを考えさせられます。


人間の意識はコトバによって成り立っていますから当然、何らかのコトバで神に祈り、問いかけます。「神様、父よ、主よ、お父様、天の父母様」それぞれが神をイメージしながらコトバで語り掛けるのです。そして深い祈りの中で感じたことを神の応答として理解します。


イエスはもっと直接的に神は私の中に内在していると言います。


イエスはピリポに「私を見た者は、父を見たのである。どうして、私に父を示してほしいと言うのか、私が父におり、父が私におられることをあなたは信じないのか」
ヨハネ14・9・10
「あなた方は神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか」コリント1・3・16


文師は革命的な表現で神は男女の初愛を通して定着すると教えます。確かに神は二性性相の父母的存在でありますから、男女二性を通して顕現するというのは実に論理的です。
また肉体を衣として表現し「人間は神を着ている」とも言います。


見えない神の神性は見える実体を通して現れるというのが原理です。肉的五感を通して霊的五感が開かれると神が「私」の中で共鳴運動を始めます。外界を見ること、聞くこと、触れることは「私」を通して神を体験することとなります。


神は主体として対象世界を創造しました。それゆえ神は人間を同じように主体として立たせ神と一緒に対象世界を感じることが出来るようにさせたのです。


日常の生活は表象意識によって物事を判断します。その基準になるものがコトバです。
生まれたばかりの幼児にとっては主体と対象の感覚が明確でないのはコトバがないからです。哲学ではそれを言語の無分節と呼び、仏教では絶対無分別、あるいは空と呼びます。
コトバの無い世界です。


幼児は自分の指を舐める感覚と母の乳房を吸うときの感覚の違いに気が付くとき初めて自分と言う個的意識に目覚めます。即ち分節された世界の中に存在していることに気が付くのです。そして外から聞こえるコトバを憶えることによって対象の本質を規定し始めるのです。


意識には表象意識だけではなく深層意識があります。実はこの深層意識を探求することが神の探究となるのだと思っています。文師は宗教者ですからそれを霊的世界と呼んだのです。特に堕落論や復帰原理の蕩減条件はこの深層意識の理解なしには到底理解できない話になります。


目に見えない深層意識(霊的世界)の世界は実は東洋哲学の伝統でもありました。無意識と呼ばれる意識状態の中に老子の道や空の無分別相があり、原理では原相、心情圏と呼ばれる世界に対応します。文師はその心情圏の神に繋がる方法を真の愛と言う言葉で教示して来たのです。そしてその完結した表現が上述した神は男女二性による真の愛の中に顕現するということだったのです。


神はどこか遠く空の果てにいるのではなく、生きた実体の中に現れるというのです。祝福の秘儀は神が相対を通して現れるということに尽きるのではないのでしょうか。主体が対象の中に完全投入する時、コトバの分節機能を超えた神人合一の境地が現れるのです。だから「となりにいる相対が神様」だったのです。


生命は自分のものではありません。それゆえどのような構造になっているのか本当は誰も知らないのです。生命を着ているのです。
愛も自分のものではありません。「私」を通して流れてくるものです。
人間は神の愛を着て、その愛は対象である隣から流れてくるのです。
相手のことを慕わしく思うその心情の中に神が共鳴して共にいるのです。

×

非ログインユーザーとして返信する