教義論争を超えて

最晩年の文師は一切の宗教から自由な一人の個として歩むべき道を
家庭と言う単位で提示してくれました
それは自己の内面を通して語り掛ける神の心情を
如何にして実在感をもって家庭の中で体験できるかと言うことでもあります


又その道を辿るに際してその人の能力があるかないかというより
神に対する思いがどれほど真剣であるかどうかに掛かっているとも述べています


いつの世も孤独な道は決して、はために華やかには見えないのですが
組織や派閥の指示だけを待つのではなく
愚直であったとしても文師が残したみ言を羅針盤に
それぞれが勇気をもって求道していけばよいと言うことなのでしょう


どだい真理と言いつつも人間が神の全容を知ることは不可能なことなのです
創造された存在が創造する側にはなれないからです
だからといってそれが知の限界になるのではなく
科学は今も宇宙や物質或いは生命現象について
飽くなき好奇心をもって研究し続けています


宗教もまた然りで神に対する帰依や信仰を大切にしながら
歴史を通して人間の霊性を育てています


科学の探求心は近代の技術革新に大きく貢献し
宗教の精神的遺産は法や秩序となって社会生活を守ってきたのです


パンとぶどう酒によって救われる
お経を唱え禅定によって悟りを得ることができる
聖酒を飲むことによって霊肉の救いが完成するなどなど
教義の優劣を比較する世界を一旦横に置いて
それぞれが本当に学んだきた教義を体現できたのかどうかを
検証すべき時が来ているのかも知れません


教義やイデオロギー論争が人間を戦わせてきたことは歴史を振り返るまでもありません
論争の正邪は内容がその通りに現実化できたのかどうかなのですから・・・
従ってUCにおいては血統転換と言う教えが正しいか否かは
誰に聞くまでもなく自分が一番よく知っているのです


文師が残した膨大なみ言がどれ程素晴らしと言っても
それが実体に実らなければ単なる形而上学に終わってしまいます
従ってみ言が本物であるかどうかを決定するのは
教会でも指導者でも韓鶴子女史でもなく自分自身なのです


あらゆる存在物は見えない暗黒物質が重力によって
原子を引き寄せながら質量を持つ形態を生み出したという近代の宇宙物理学の定説も
その暗黒物質が何であるのかは依然として分かっていません


宇宙に内在する見えない力が生命現象を発生させ
見えない暗黒物質の背後に人格を持った生きた神が
いるのかいないのかは同じように自分が判断するしかないのです


文師もこのように言っています


「もう、私たちが誰かの言葉を聞くときは過ぎ去りました
どんな真理よりも、千万倍素晴らしい師の言葉よりも、私の声を聴き、
聴いてもまた聴きたくて、その心を求めていくべきです。
そうすれば、私も分からない無限大の何かが出てきます。
それが創造の内容です。真理の言葉や誰かについて信仰する時代ではないのです。
それらは自分の心の声を聴くための手段です。目的ではないのです」


そうあって欲しい、何となく、これかも・・・と言う
曖昧な思い込みの世界から卒業して良心の声に従い
それぞれがより一層修練を積みながら善の競争をし合うことです

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