聖杯と剣

「全ての男の頭はキリスト。全ての女の頭は男。そしてキリストの頭は神である。
男は神の姿と栄光を映す者ですから、頭に物を被るべきではありません。しかし女は
男の栄光を映す者です。というのは、男は女から出て来たのではなく、女が男から出てきたのだし、男が女の為に作られたのではなく、女が男の為に作られたのだからです

コリント人への手紙・1-11章


リーアン・アイスラーは「聖杯と剣」の中で今までの文化は
聖杯ではなく剣であったと述べています
キリスト教は愛と言う言葉とは裏腹に剣の論理
男性の論理で歴史を血塗られたものにしてきたというのです


アジアに展開した儒教の教えも仁と言うよりも
男尊女卑を強調し上下関係を重視することが社会の規範となり
それが女性を蔑視してきた原因ともなってきました


聖杯とは受容する愛の器の思想です。アイスラーは男性文化はやがて終焉を迎え
女性を中心とした聖杯文化が大切になる時代が来ると論じています。


主体(男性)と対象(女性)関係はどちらが優れているかと言うことではなく、
主体と対象のどちらも生かそうとする働きのことが聖杯の本質だといいます


A かBか、東洋なのか西洋なのか、キリスト教なのかイスラム教なのかという
二元論的対立構造は終わりAもBも、東洋も西洋もと言う、
存在している両方を受容する時代のことを指します


その際、大切な心構えが「帰依する」という内的姿勢です
自分を零にしてひたすら相手の存在に自分を託するという態度のことです


ところがここで気を付けなければならないことは男性原理社会においては
「帰依する」ことが往々にして主従関係に先祖返りをしてしまうということです
ここに権力を志向する「剣」の文化が生じると言います


剣の文化は歴史的に根強く浸透しているので
人間はいとも簡単に取り込まれてしまうのです


権力に魅せられたものは一様に自分たちの既得権を守ることに終始し
その為には欺瞞や偽善は勿論、自己正当化を盾に権力奪取の為ならば
どのような謀略をも厭わず画策するというのです


世界の平和統一を目指したUCもこの組織的な「剣」の論理から
長い間、脱却することが出来ませんでした


文師が聖和されて韓鶴子女史が相続したのでUCにも漸く
聖杯の時代が訪れるものと期待していたのですが
残念ながら韓鶴子女史も剣の論理を乗り越えることは出来ていません


ご自身の地位と権力を保持するためにご自身の息子たちを追放し
文師を支えてきた初期の先輩家庭の口を遮り
孝情心を強調する物を言わせぬ強権政治に執心しているからです


加えて自分に歯向かう者にはこの世の法で裁き
例えそれが実の息子であったとしても例外ではないのです


「帰依」の本質が上下関係になると派閥が構築され
取り巻きは誰につくのが一番有益なのかという自己保全の欲望に翻弄されてしまいます
そこでは何が正義であり善であるかが混濁してしまい
正しい真実が見えなくなってしまうのです


こうした歴史的な「剣」の霊界を解放するために
「恩讐を愛する」思想をもって現れたのが統一運動でした
キリスト教の「愛と許しの」は権力への抵抗としてガンジーの無抵抗主義や
キング牧師の黒人解放の思想に引き継がれてきましたが
本来はその総決算である統一運動において花開かなければならなかったのです


「剣」は権力の象徴です
「聖杯」とは愛を内包した受容の象徴です


聖霊の時代とは聖杯に注がれる真の愛の実体となり
その代表が真の母なのですから裁判闘争に巨額な費用を使う愚行から
一日も早く脱却して本然の母の姿に戻ることを心より望むものです

×

非ログインユーザーとして返信する