神が私の体を着る

復帰原理では中心宗教であるキリスト教と周辺宗教に区分されているので
殆どの信徒は中心宗教のキリスト教の聖書を学べば事足りると思っています。


ある一時期から我々の運動をもっと客観的に検証できないものかと
様々な宗教や哲学を研究し始めました


改めて学んでみると予想以上に他の宗教や哲学の内容の深さに
驚愕したことを憶えています
四大聖人を中心に文師が祝福儀式をしたので宗教と哲学の統一も完了した
と言う単純なものではないことを痛感させられました


例えばキリスト教徒も回教徒もそして新興宗教を含めて
神を信じる心の在り方には大差はないと言うことです
特に創始者に対する畏敬の念にはほとんど遜色がありません。
あのオーム真理教でさえ未だに麻原正晃を尊師として
彼の写真を前にして敬拝している信徒もいるようです
祈りの形だけ見ればUC・家庭連合も同じです


では彼等が祈る神様と文師の教えた神様とは何か違うのでしょうか


多くの信仰者は神は外にいて外から来ると思っています
従って教祖や権威ある人の言葉に神が直接語り掛けると信じているので
集会や会議になるとノートを小脇に抱え
一言も漏らすまいと教祖の語る言葉を筆記するのです
この現象は宗教に関わらずこの世の組織にも顕著に見られる光景です


もっとも北朝鮮のような国では首領様の言葉に従わなければ
生死にかかわることなので映像を通しても分かるように
ひたすら下を向いて必死なって記述するしかありません


そういう意味では心は常に外に向いているのです
それではその言葉を聞いて判断する人は誰かと言うとそれは自分なのです
ここで大切なことは教祖の言葉を聞いて判断するときに
自分の中にも神が働いていることを自覚しているかどうかと言うことなのです


もし受ける側が飼いならされたペットか家畜のような
思考停止状態になっていたとしたら彼らは外からの来る言葉を
全て丸ごと受け入れてしまうだけでしょう


たとえそれが自分の良心や客観的に見てもおかしいと感じても信じるのです
狂信的宗教組織ではそういった疑念を持つこと自体
信仰心の欠如として教えられているからです
これが写真を前にして祈る人間信仰の問題点です


では人間が神の実体対象になるとはどういうことなのでしょうか?
偉大な聖者や宗教の教祖は何らかの真理を体得した人が殆どです
インドにシャンカラと言う覚醒者がいました
彼はそういう人間の心の有り方が一番問題だと指摘しています


神は自分の前に相対的に見るのではなく
神の側に位置して自分が前を見る時に
同じ眼差しの中に神を見るのだというのです
このことを私は勝手に神との共鳴運動と呼んでいます


文師の言葉も全てを丸ごと受け入れるのではなく
自分の中の神の眼差しのフィルターを通してみると言うことです


日本語に翻訳されていない文師のみ言葉の中には
数多くの日本に対する偏見や間違った歴史観が残されています
だからこそ生前にご自身で何度も自分の説教や講演集を読まれて
どれが普遍性を持ち神霊によって語ったものなのかを
チェックされたのではないのでしょうか
その集大成が八大教本なのでしょう


歴史を俯瞰してみると人間に語り掛ける神は
ある特定の中心人物を通して降りてきますが
神はどこにでもいるので周辺宗教にもそしてあなたにも語り掛けているのです


文師のみ言葉はご自身が体験された神との心情の記録です
我々一人一人がその心情を追体験する時
み言葉が真実であるかどうかが分かるのです
神の最大の願いはあなたの体を着ることなのですから


ゲーテは自分が自然(神)と直接結びついていると感じ
自分の心の中に浮かぶものは自分の中の自然(神)が生じさせるものと思っていました


花が咲くのと同じ必然性をもって自分の中に生じる
創造性の花が咲くことを実感できたゲーテに取って
この世の全ての働きは見えない自然(神)の顕現だったのです
自然(神)がその豊かな内容を一つ一つ異なる仕方で表しているように
人間においても同じなのです


「私の意識は体の中にあり、私の体はこの部屋の中にあり
この部屋は大地の上にあり、大地は周囲の空間、空間は宇宙の中にある
しかしもし私が神の立場に立ちその心情の中にあれば
私がこの家の中にいるのではなく、この家が私の心情の中にあり、
私が宇宙の中にいるのではなく、宇宙が私の心情の中にあるというのです
神は体を持った私を通して現れ、一人一人の内部でその人の特性に合わせて
個性ある衣装をまとって現れるのです」

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