天国は男女で入るところ

三年前に体を壊してから、養生を兼ねて離れ小島に移住してきました。島の朝は鳥の声と共に始まるのです。アッシジの聖フランシスが異端を除名にしたり、断罪する世界に嫌気がさして、簡素で自然に囲まれた生活を始めた意味がここにいるとよくわかります。彼は神の創造した自然を兄弟姉妹のように大切にして、清貧の生活の中に神の光を見たのです。


有名な小鳥に説教した逸話が残っていますが、この島の鳥たちも毎朝、傍にやってきて決して逃げることはありません。神の下での「万民兄弟の思想」はフランシスにおいては全ての自然も含まれています。


フランシスはキリスト教が十字軍の熱狂の中にあったにも関わらず、対立していたイスラム教徒へ足を運び対話したと言われています。超宗教の本質は神の下での人類一家族と言うことです。聖フランシスは1181年頃に生まれましたから、千年前に既に超宗教運動をしていたことになります。


自然は不思議です。植物や樹々の高さは一定の高さ以上に伸びることはありません。ちょうど人間が見て楽しむぐらいに育つのです。その枝に緑の葉が茂り、花が咲くと、原色に近い色からクオリアと呼ばれる心情が流れてきます。色には心情があるのです。同じように天に吸い込まれるような透明感を持った蒼色は果てしない憧憬と畏怖の心情が大空を彩るのです。


ゲーテは有名な色彩論で色彩は明るさと暗さ(光と闇)のプラスとマイナスに分け、二極が男女のように呼び求めあう中に生成すると考えました。あたかも夜の神様と昼の神様の出会いのような表現をしているのです。ニュートンは「光は屈折率によって七つの色光に分解される」と言う物理現象としての光学を主張しましたが、物理的現象だけではとらえきれない根源的なものを光の背後に感知し、色彩が惹起する感覚的・精神的な感性作用の重要性を論述しています。きっとゲーテは色彩がもたらす神の心情を感知していたのだと思います。


静かな朝、神が注ぐ心情が色彩の中で光り輝いています。
目はそれらを見ることによってその感性に直接、触れることが出来るのです。


さて前置きはこのくらいで今日の本題です。


神は本性相と本形状、本陽性と本陰性が一体となった状態だと原理は言います。
そして、二つに分立したのが人間であり、それぞれは陽性と陰性の肉体として実体化します。
女性は陰性の立場から肉体を通して生涯を通して半分の霊人体を形成します。
男性は陽性の立場から残りの半分の霊人体を形成するのです。


何故、半分かと言うと、それは愛を完成する為なのです。


男女はそれぞれの思いや体験を自由に重ねて
その体験の最終的なこの世での実りが初愛の祝福結婚となります。
そこにおいて初めて半分づつの陽陰が
合体して神の似姿になると言うのです。


「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち神のかたちに創造し、男と女とに創造された」と言う聖句の真意は一人では神の似姿になれないということです。


愛によって完全に繋がり、
繋がった一点を通して
神の見えない心情が喜びとして
流れてくる時、
その喜びの心情こそが神の
心情圏に繋がっている状態です。


その中に溶け
その中に酔うのは
神が共にいるからでしょう。


地上で分立した二性が
愛によって一つになって
永遠に生きていくのが霊界です。


だから男性の全ての体験は女性の為のものであり
女性の全ての体験は男性の為のものであるという
原理になるのだと思っています。
それを集約して「為に生きる」と文師は言ったのです。


この地上界は別々のように見えますが
神の中でもともとは一つでした。
だから天国へは神の似姿にならないと入れないのです。


「天国は神様の愛を中心として、完全に一体となった夫婦が入るところであり、その一体となった夫婦から生まれた子女たち、すなわち、神様を中心として一体となった家庭、氏族、民族を全部治めて入って行くところです。ですから地上で家庭を持てなかったイエス様は、今まで天国に入ることが出来ず、楽園にとどまっていたのです。神様の愛を中心として結ばれた夫婦でなくては、天国に入ることは出来ません。」(我々の世界と一つの世界・本郷とはどのようなところか)

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