神の眼差し その1

第二次世界大戦が終了して七十年以上が過ぎました
悲惨な戦争を体験した世代から戦争を知らない世代に移行して
人類は新たな平和と安定の中に生きることが出来る希望の世紀を迎えたかのようでした


しかしその人類が共に繁栄する世界秩序は未だに構築できないまま
宗教対立は中東を分断し民族主義は国と国を引き離しています


統一原理は神を中心とした人類一家族というビジョンを掲げて
統一運動を展開していますが半世紀以上も経ちながら
言葉だけは独り歩きをしているものの実体がなかなか伴いません


祝福を受け真の父母を中心とする血統中心主義を標榜していても
肝心の統一家の中においても未だ理想の家族の形態を示すことが出来ず
ましてや人体の構造に則した社会共同体までは依然として
共同幻想の域を超えることが出来ていません


それもこれも煎じ詰めれば見えない神の実体対象になるという
原理の根本である個人における創造目的が現実化していないからなのです


言葉でどれほど人間は神の実体対象と学んでも誰しも自分を見れば
自分が霊的にどの位置にあるのかよく知っているのです


個人が神の実体になれなければ家庭も氏族も
ましてや社会全体が神の国にならないのは当然のことです


蕩減条件を払い数多くの献金を捧げ
僕の僕から「為に生きる精神」をもって八段階を通過すれば
個性が完成し神の似姿になるという教えはいつ成就するのでしょうか?


ましてや祝福を受けて生まれた子供たちは霊的讒訴のない
本然の人間に近いのですから少なくとも祝福家庭が集まるところでは
人類が願った天国のような香りがしても良いはずです
礼拝や集会に参加して神の栄光が例え小さくとも
この教会や集会の中から始まっていると確信できなければ
天国はどこにも見ることは出来ません


統一運動はキリスト教の霊的救いを超えて霊肉共の実体救済の教義です
最終且つ最後の道が提示されその先頭を歩むのが祝福家庭であり
その希望の実体が祝福二世三世たちなのです


神の実体化はスローガンではなくリアルでなければなりません
何千回訓読会を開いてもみ言の実体になることが出来なければ
地上天国は絵に描いた餅です


人類を一つに出来るという原理はその有効性をまだ堅持しているのでしょうか?


イエスが「汝の敵を愛せよ」と言った言葉が実行できない人間の弱さを
原理では堕落の結果だと指摘しました
祝福を受けた人間はその堕落した結果の原罪から解放され
実体的救済を受けたのならそれを実証できなければなりません


宗教の限界は創始者のレベルに弟子たちが到達できなかったことにあります
どれほど創始者が真理や愛を語ってもそれが弟子たちの中に実現できなければ
その教えは真実とは言えないのです
嘗て聖進さんが水沢里で自分の父親のことをこのように表現していました


「私の父親がメシアであるかどうかは
本当に実体で人類を救うことが出来たかどうかです
もし救いが現実化できなければあの人は私の父親に過ぎません


文師は救いの本質を祝福に結晶させました
またその祝福を継承した韓鶴子女史も救いの本質は
真の父母によってしか救われないと各地で宣言しています
真の父母による祝福のみが人類統一の鍵だと言うのです


ならば結論は
祝福を受けた「私を見よ」となるのです


み言では後天時代は神に侍る時代
侍るとは神が私と共に生きていることを実感することだといいます


南北統一が外的に実現したとしても
生きた神を生活の中で実感できなければ
その統一は中身のないものになってしまい
再び分裂してしまうのです


神は一連の分裂騒動を通して我々に警告しているのです
それは一人ひとりがイエスや文師が出会った神に
あなた方ももう一度出会うのです」と言うことに尽きるのです


だからと言って今までのように上からの命令に従って
全ての信徒が同じことをする必要は毛頭ありません
神は一人ひとりの役割や使命を誰よりも知っています


まずは身近な人との出会いに心を込めて尽くすこと
日々の仕事に懸命に励むこと
社会の底辺を支える人の気持ちを忘れずに生きること


芸術家は芸術を通して
政治家は政治を通して
社会的に地位ある人も
社会を支える立場の人も
神の目から見れば大切な一人ひとりなのです


与えられた環境の中に生きている神に気が付けば
必要に応じて神が召命するのです


何よりも良心に語り掛ける神の声に耳を澄ませることです
その際くれぐれも自我との自己同一化に対しては注意を払うことです
エゴが何であるのかと言うことに覚醒できれば
神が「私の私」として自分の中にいることに気が付くからです

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