神の眼差し その2

私は幼少時から自分の中にもう一人の「私」がいることが不思議でした
学芸会で舞台の上に立って演技をしている時も
人前で緊張しながら歌っている時も
じっと自分を見ている眼差しがあることに気づいていました


或る時、海岸に座って海を見つめていると
自分の目がレンズの働きしかしていないことに気が付いて
瞳の奥から何者かが海を見つめている感覚に包まれたことがあります


海を見ている自分の中に
レンズとなった瞳を通してじっと見つめている
目撃者のようなものがいることが不思議でした


少年期に読んだフランスの詩人が書いた「地獄の季節」に衝撃を受けたのは
彼もまた「自己とは一個の他者」だというのです
その翻訳をした小林秀雄も「精神が精神を見る働き、精神による精神の直接な視覚。
内的生活の不可分な実体的な持続の直接的な意識」と述べているように
心の中に自己を見つめるもう一つの精神としての眼差しがあることを知っていました


ではその精神である見る者の眼差しとは何なのでしょうか?


人間は無数の自我の塊だと主張した神秘家のグルジャエフやウスペンスキー
内面をひたすら注視する「気づき」の重要性を唱えた
インドのクリシュナムルティやラマナ・マハリシ
シュタイナーの自己認識に関する超感覚的な霊性
唯識の「無我や無所有、縁起や無自性」
般若心経の「空即是色」
老荘哲学の「道」
イスラムの哲学でいうマーヒーヤ(普遍的本質)
或いはユングの集合的無意識に至るまで
見者の眼差しを追求する人たちは世界中にいたのです


自己とは何かと言う課題をもってひたすら内面を探求する
哲学や宗教は総じて究極的な絶対一者(神)と個の関係を求めることでした


その接点となるものが自分の中の「私」だと賢者は言うのです


統一原理は喪われた神との関係は歴史を通して選ばれた特定の人物にあらわれ
神の再創造摂理を導いてきたと聖書を紐解きながら論証しました
彼らに現れた神もその接点は彼らの心の中に語り掛けたのです


しかしこのユダヤ・キリスト教の考えは往々にして
神と人間を二元論の世界に追いやり
絶対者を天上に隔離してしまう危険性を含んでいるのです


私にとって関心があることは天上の神を崇拝することではなく
歴史を導いた神を私の中に下ろすことでした


身体も生命も全ては神から直接与えられたものです
神の力なしに人間はひと時も存在できないはずなのに
その神が一人ひとりの中にどのように関係しているのかが明確ではないのです


神はいつもどこかこの宇宙の一角にいて人間を見つめていると信じることで
果たして本当に生きた神を実感出来るのでしょうか?


文師の「良心は神にまさる」「神を着る」と言う表現を考えるたびに
心の内側に向かって「私とは誰なのか?」という根源的な問いかけが
はじまるのです


「私」は肉体をもっている
この体がこの地上生活における「私」の根拠となるが
この体は「私」ではない
「私」は体を見たり触ったりできる
しかし見たり感じたりされる対象である体は
見ているものではない
では見ている「私」とは一体誰なのか?


「私」には感情がある
しかし「私」は感情ではない
喜びや悲しみ、怒りが「私」なのか?
「私」には無数の思いが浮かび上がる
しかし「私」はそれらの思いではない


思いはやってきてはまた去っていく
これらの生起する思いや感情を対象化して
じっと静かに見ている「私」がいる
全てを見守る「私」
この目撃者とは誰なのか?


流れる雲を見て何かを感じ
浮かび上がる思いをじっと見つめ
批判も判断することもなく
良いも悪いも超越し
無限に広がる純粋な空性
それら全てに対してただ気づいている


この気づいていることに安らぐ
すると何かが開けてくる


素粒子が無の中に対消滅するように
出たり入ったりする無と有の授受作用
その空性の場に憩うとき
目撃者自体も消滅し
やがて「私」が
雲になり
雨になり
大地になる
「父母未生以前」のワンテイスト(一者の味わい)


透明で鏡のような澄んだ
あるがままの世界
愛の出発点であり
同時に帰着点
その場に安着しながら
私は毎日

神を着る

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