マザーテレサの心の闇

「私がシスターや人々に神や神の仕事について口を開くとき
その人たちに光と喜びと勇気を齎すことをよく理解しています
しかしその私は光も喜びも勇気も何も得ていないのです
内面は全て闇で神から完全に切り離されているという感覚です

マザー75歳 ヒュアート神父への告白


ノーベル賞を受賞してからも他界するまでのマザーの心の闇
は神不在の状態が続いたと言われます
死を迎える直前まで揺れ動く聖女マザーテレサの内面の葛藤は
一般に伝わる聖者のイメージとは180度違うのです


信仰者の鏡とされたマザーが神の実在を感じることがなかったという
事実は多くの人々の中に衝撃を与えました


キリスト教関係者はこの心の闇はイエスの神から見捨てられた苦しみを
共有するものだというのですが、その苦しみがイエスの心情に近づくものなら
逆に大きな喜びに繋がるのでしょうがマザーはその心の闇
神不在の葛藤が最後まで続いたと言うのです


信仰生活をする上で同じような葛藤の中に陥ることは誰もが経験します
一つの教義の中でその教義を真理として受け入れたまでは良いとしても
例えばイエスの言葉や教祖の教えの通りに生きることが出来ない自分の弱さに人間は悩むのです


教義の理想が高ければ高いほど、人の魂はその教義の中に閉じ込められてしまい
仮にその教義に反するような行動をしたときは裏切り者
或いは失敗者、落後者の烙印さえもつけられるのです


本来はその人間の弱さを救うものが信仰だったにもかかわらず
弱さ故、教えに沿うことが出来なかった者は救いに預かれないとするなら
その教義は人間を解放するのではなく人間を裁くものになってしまいます


ブラック興進が日本に来た時に、そうそうたる指導者が次々と壇上に立たされて
教義に反する行為をしたと言うことで鞭打たれた事実は人間の弱さを象徴しているのです


マザーはこの世から見捨てられ、死に至る貧しい人たちの中にイエスの姿を見て
彼らに奉仕することがイエスに仕えることだと悟り
インドの貧民窟にその拠点「神の愛の宣教会」を立ち上げました


彼女は利他愛の中にイエスの本質を見たので
生涯をイエスに尽くすかのように貧しい者たちに仕えました
まさに神の栄光を現す人生を生きたかのように思われていますが
マザーは栄光ある表の顔とは別に裏の苦しみの顔も持っていたのです


私は頂いたノーベル平和賞の賞金で、家がない多くの人々の為に
ホームを作ろうと思います。なぜなら愛は家庭から始まると信じているからです
もし貧しい人たちの為に家を作ることが出来たなら、もっともっと愛が広まっていくことと思います。

そして愛を理解することによって私たちは平和をもたらし、貧しい人々
家庭の中に、国家の中に、世界の中に福音を齎すことが出来るでしょう・・・

マザー ノーベル賞受賞時のスピーチより


この崇高な精神と正反対のマザーの真実は神の存在に対する確信が得られず
苦悩する姿でした


「私の心の中に恐ろしい闇があるために、まるで全てが死んでしまったかのようです
私がこの仕事を始めるようになって間もない時から、このような状態がずっと続いています」


「主は私一人を残して自分から去ってしまわれました・・・


「私の信仰は一体どこへ行ってしまったのでしょうか?心の底には
虚しさと闇しかありません。主よこの得体のしれない痛みは何と苦しいことでしょう。
・・・愛、其のコトバは何の喜びも私にもたらしません。
神が私を愛していると教えられてきました。しかし闇と冷たさと虚しさに満ちた現実があまりに大きいため、私の心は何の喜びも感じることができません。
私が奉仕を始める前には愛も信仰も神への信頼も祈りも犠牲精神も私の中にありました。
主の呼びかけに忠実に従うなかで、私は何か間違いをしでかしたのでしょうか?
人々は私の心の中には神への信仰と信頼と愛が充満し、神との深い交わりと神のご意志との結びつきが心を駆り立てているに違いないと思っています。
彼らは私が表面上の明るさと言う仮面によって、どれほどの虚しさと苦悩を覆い隠しているのかを知りません・・・」


この心の状態は40歳頃から始まって亡くなる87歳まで続いたと言われます


こうしたマザーの心の二面性は多かれ少なかれ全ての信仰者の内面を現しています
真剣に道を求めるものが遭遇する絶対なる一者との邂逅はどのような形をとるのかと言うことです。神は人間にどのように現れるのでしょうか?


マザーは36歳の時にダージリンに向かう列車の中で
「修道院を出て貧民街に行き貧しい人々に奉仕せよ」との召命を受けたといいます


「イエスの仕事をインドでするように何者かが私に呼び掛けているから、
これらすべてのことをするのです。このような考えは多くの苦しみを生みました
しかし、その声は言い続けるのです。あなたは拒むのですか?」
と。


またある日聖体拝領をしている時に同じ声がはっきりと言いました
「私はインド人の修道者が欲しいのです。私の愛の為に自らを犠牲にする人々。
十字架の慈しみによって満たされ愛に満ちた修道女たちが欲しいのです。
あなたは私の為にそうすることを拒むのですか・・・」


パウロはダマスカスに向かう途中で召命を受け
キリスト教の刷新運動をした聖フランシスも似たような体験をしています


これらは神人合一体体験、接神体験として一般に知られている心的現象です
信仰者や修行者は祈りや瞑想を通して神と融合した感覚を一度体験すると
魂にその強烈な刺激が刻印されるのでそれが確信となり
常にその原点に回帰しながらその境地を求めようとするのです


マザーの苦悩はそのイエスとの邂逅が
それ以来訪れなかったことにありました


日々の祈りの中でイエスとの邂逅を求めるのに
一向に感じられない内面を只単純に信仰によって
思い込ませようとしないところにマザーの誠実で正直な性格を
見ることが出来ます
しかし逆にその誠実さがマザーの心の闇となったのです


神はどこに現れるのでしょうか?
この最も根源的な問いかけが信仰者の偽ざる願望なのです


文師は其れを男女の愛の中に現れると断言したことは実に革命的なことでした


身体は神の現れる基地です
エゴと言う衣を脱ぐともう一人の「私」がいることに気が付きます
それを象徴的に良心と呼んだのです
人は全て神の実体対象と言うのが原理です
コトバを変えれば人間は神を実現する基地なのです


マザーは利他愛を実践したにも拘らず何故神の不在に遭遇していたのでしょうか
それは自分の心に語り掛ける声を外にばかり探し求めたからではないのでしょうか?


良心に直接語り掛けているにも拘らず大いなる声がどこからか別の声として
聞こえることをずっと待ち望んでいたのかも知れません


心身脱落とはよく言ったものです
エゴを脱落したときに残るものが本当の「私」であり
その「私」とは言葉を換えれば「神意識」のことだからです


「私たちは寒ければ寒いと言うのを知って感じるのではなく、寒いことを感じて知るのです。これと同じように神がいらっしゃるなら神がいらっしゃることを皆さんが感じなければなりません。細胞で感じなければなりません。その境地が問題なのです。言い換えれば体恤的立場をどのように私たちが確定するのかという問題、これが問題なのです」

「神様は妄想的な神様ではありません。抽象的な神様ではありません。
生活的な主体性を備えて、常に私たちの暮らしている生活の主人として共にいるのです。
侍られるだけではありません。共同的な愛を中心として共同的な生活をしている神様なのです」
真の神様より

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