文化の多様性

世界を統一するというUCの考えは昨今のグローバル化現象と似ています。
文師は家庭が完成すれば、氏族、民族、国家、世界へと神を中心とした一大家族理想が拡大すると教えます。既に理想家庭の種は世界中で芽吹き始めていると言うことですので、その血統圏が造る出す文化があらゆる宗教の基準を凌駕した人類の模範、希望となって表れてもよい頃です。が現実は分裂状態です。しかも上位通達によれば、分派と接点を持たないよう警告しています。


世界の統一を掲げてきた運動が何故、反対の「排除の論理」の中にあるのでしょうか。


EUの統合はヨーロッパを一つにしようとする革命的な試みでした。政治経済の統合を通して別々の国家が大きな単一市場を持った共同体を形成したのです。そのEUが英国の離脱をきっかけに今、同じように分裂状態になりかかっているのです。
その大きな理由の一つが移民してきたイスラム原理主義者のテロ事件だったのです。


英国は異質文化を持った移民者を寛容な精神で受容する多文化主義の立場をとっていました。文化の多様性を認め宗教の自由を容認し、肌の色、伝統、習慣がどうであれ、人間の基本的な信仰の自由と平等を権利として認めていたのです。しかし結果は異文化の多様性を充分に受容できないイスラム原理主義者の排他性によって打ち砕かれてしまったのです。


UCの心情文化は英国型とは違うように見えます。
UC内部の独特な儀式には韓国文化の伝統や習慣の影響を色濃く見ることが出来ます。また組織は上下のヒエラルキーが強く、依然として儒教的なアベル絶対主義が主流のように見えます。


結婚に関しても二世同士の祝福なのか、それとも非原理の人間との祝福なのか、或いは既成祝福なのか、と言った差異があり、それも一種のレッテル貼りとなります。


また自分たちの住む空間を原理圏とし、自分たち以外は非原理圏として一線を引きます。差別するような意図はないのでしょうが、結果として優劣が生まれるのです。恐らくその究極は人間の価値を原罪の解放された人間か否かと言う観点からカテゴライズ化する習性が残っているからなのでしょう。


UC は内的には血統中心主義ですから、祝福を通して血統圏への同質化を求めるのですが、不思議なことに対外的には超宗教、超文化主義を奨励しているので、あたかも多文化主義にも見えるのです。


ある有名な大学で芭蕉を研究している教授が多文化主義に賛同し大会に参加した後、原理講義の言語統一の話を聞いて躓き、それ以来、来なくなってしまったと聞いたことがあります。


日本文化はコトバの文化でもあります。言葉が霊的なものを運ぶので言霊と呼びました。俳句の味わいは英語でも韓国語でも味わうことは出来ません。言語を統一しようとするのが原理の教えですが、それが成された暁には俳句も和歌もなくなってしまうのではないのでしょうか。その教授は芭蕉のコトバに宿る普遍性を否定されたように思ったのでしょう。


フランス文化はフランス語と切り離すことは出来ません。英国人はシェークスピアを英語以外の言語で読んでもあの美しい格調の高い言葉の響きは決して伝わらないと言います。言語の多様性がそれぞれの独特の文化を創造し、互いに刺激しあって世界を豊かにしてきたのも事実です。言語を統一し文化の同質化を推し進めると多様性は確実に崩壊してしまいます。


華厳経の中に蓮華蔵世界海と言う考えがあります。この世界は一つ一つが切り離されないネットワークのように繋がっていて、私たち一人一人はその繋がりの中の輝く宝珠だというのです。一つの宝珠は他のすべてを映し出し、互いに相違はあってもその宝珠と宝珠の集まりが蓮華の花ように美しく輝き見事に調和している世界のことだそうです。互いに違った個性を照らし合えば合うほど、その一つ一つが宝石のような価値を持つと言うのです。


他を排斥する文化の独善性から他と協調する文化へと進んだ時、新たな調和された本当の心情文化が始まるのではないのでしょうか。


自分たち以外を異邦人と見做し、絶対的価値の普遍化を盾に他文化に強要し続けるところには必ずテロのような悲惨な事件や軋轢が出てきます。わずかな考え方の違いで長い間UCに貢献した先輩たちを破門にしたり除外する文化には賛同いたしません。


多様な考えや文化を認める寛容な精神こそが今求められているのではないのでしょうか。韓国中心主義が目に余るようならはっきりと異論を言うべきなのです。それぞれの国の文化の多様性を認めることが新しい天と地の始まりなのではないのでしょうか。


地球は多様化の宝庫です。全ての存在が豊かで輝いているのはその一つ一つの多様性の中に神の愛が流れているからだと思うのです。

×

非ログインユーザーとして返信する