権威ある者を求める信仰

久し振りに「カラマーゾフの兄弟」の中に出てくる大審問官のことを考えていた。
ドストエフスキーの一大抒情詩でもあるイアンの独白は
大審問官の言葉として今でも世界に最も衝撃を与えたものとされているが
以外に全部読んだ人はあまりいない。


時は16世紀のスペイン。
異端者を断罪する嵐が吹き荒れるセビリアにイエスが降臨する。


突如として現れたイエスに人々は病や苦悩から癒されるために
イエスの周りに群がる。
するとイエスは人々に嘗てと同じように奇蹟を起こしていく。
その行為を見て人々は歓喜の声を上げる。


そこに大審問官が通りかかる。
そしてイエスに質問を突き付けるのだ。


「教皇に一切を委ねて去ったお前に、今更何か付け加えて話す権利などない。
それに向こうの世界の秘密とやらをお前が一言でも話した途端、
そのお告げは奇蹟となって人々に伝わり、あれ程お前が守ろうとしてきた
自由を人々から奪うことになるだろう・・・・」


大審問官の問いは飢餓状態のイエスに対して語るあの有名な三大試練である。


第一の質問は「石をパンに変えよ」と言う悪魔の誘いに対して
「人はパンのみにて生きるにあらず」と答えるのだが


大審問官は人間はお前が考える程、高尚ではないと語り
石をパンに変えれば天上のパン(自由と責任)などより
人間は地上のパンに簡単に服従するという。


第二の問いは
サタンはイエスを高い塔の上に立たせて自分が神の子かどうかを証明せよという
「もし神の子ならば宮から飛び降りても天使が守るだろう」というのだが
イエスは「神を試みてはいけない」とこれも退ける。


大審問官は人々は奇蹟を待望しているのだから
それを見せればいいのではないかという。


第三の問いは
「わたしに従いひれ伏せば、この地上の支配と栄華を与えよう」と地上の権力を
与えようとするのだが
イエスは一言「神のみに仕えよ」と言って相手にしない。


大審問官はこうしたイエスの対応にこのようにいう。
「無力で罪深い人間は、無条件に何の議論の余地もなく誰もがひれ伏せるような
相手を求めている。統一的な跪拝の実現のために、人々はそれぞれの神を
創り出し、己の神を捨てるよう相手に要求し続けてきたわけだし、
その為にどれだけの血が流れてきたことか。
人間にとって地上のパンほど、明白なものはなく自由や天上のパンと言った概念ほど
曖昧で手に負えぬものはない・・・・」


三つの試練を要約すれば
「人々の幸福には、神の言葉も必要だが実際のパンが必要なのだ」
「人々は真理を悟るより目に見える奇跡を信じたいのだ」
「人々はそれゆえ絶対的権威への服従を求めているのだ」ということになる。


悪魔サタンの誘惑を悉く退けたキリストは人間の中にサタンの誘惑に
決して屈服しない自由とそれに打ち勝つ強さを見ていたのだろうか?


文師は原理講論の中でその三大試練を三大祝福として説明している。
第一の答えは一人ひとりが神の実体となる個性の完成をすること。
第二はその基盤の上に理想家庭を作ること。
第三はその理想家庭の集団によって地上に統一された理想の国が建設されること


この天国理想が三大祝福であるという。


しかし実際に起きていることは
一人ひとりの中に神が生きるというより
自分の自由な精神性を権威ある誰かに捧げようとしているのではないのか


また病気や悩みに関しては献金を添え祈願書を提出すれば
奇蹟的な恩恵を受けられるとして何度も清平詣でをしている。
そこでは霊人たちも奇蹟のごとくに絶対善霊になっているという。


その霊たちが協助するので地上界はやがて天国になっていくという
摩訶不思議な話である。


そして何よりも求められるのは絶対的な権威者の前に
絶対服従することこそが美徳とされ
自由な意志や判断能力が希薄になってしまっても一向にかまず
自分たちの考え以外は「見るな、聞くな、近寄るな」とまさに
セビリアに降臨したイエスを排除する大審問官のようだ


この大審問官は後の共産党の指導者になり
一党独裁の全体主義者を生みだし
狂信的な宗教テロあるいは独善的な宗教運動にも繋がっている


三大祝福が文師が望むような形でいまだ出来ていないのは
人間はそんなにも高尚ではないと言うことなのだろうか?


それとも神を着ることに目覚めた新しいタイプの人間が
密かに誕生しているのだろうか?


全ての鍵は私たちの中にあるのだが・・・・

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