束草事件の怪

束草事件のことを考えるたびに
一体何が真実なのかと混乱する人が多いと思う


郭先生の本には


「私は再び訓母のところに行きました
訓母様、一体何のためにそうされたのですか。
これはなにをしようということですか
訓母は私は何も知りません。私は関与していません


霊界メッセージは自分が作成していないと郭先生に伝えたという


そして「これはお母様が梁会長に報告書の作成を指示し、
これを訓母報告書というタイトルをつけて
お父様に霊界メッセージとカモフラージュしたのだ」

とまで記している。


この霊界メッセージの内容は
組織の指揮体系や後継構図に対する具体的な提案が書かれていたという
即ち霊界の権威で地上の人事を決定したというのだ


これだけを聞くと何とも異様な宗教団体だと誰もが感じる


結果的にはこの「お告げ」に従って新たな組織編成が成されたわけだから
この世の人間たちは霊界によって人事されてしまったと言うことになる。


古代の祈祷師や巫女が語る言葉をそのまま信じるシャーマニズム信仰が
間違っていると言うのではなく
あれ程、真理は知的に理解できるものでなくてはならないと
原理講論の中で発表しておきながら
霊界メッセージが組織編成の中心的役割を果たしたことが
どうにも腑に落ちない。


これだと霊人がこの世の人間の行動を決めてしまうことを是認することになってしまう。


もっと不思議なことは霊界の全てに精通したと言われる
真の父母が霊媒師が語るメッセージに頼っていると言うことだ。
しかもその内容は生々しい現実の人事だと言うのだから
地上に生きる人間の責任分担も何もあったものではない。


全ての権威の中心とされる真の父母が長男の急な逝去に衝撃を受け
暫くは天情苑にこもりがちになっていたという
そして時々、気分転換の為にと湖で釣りをする中で
周辺の人たちに「私は神様と霊界の啓示のみを信じる」
繰り返し話していたというのだが
これもまたおかしな話である。


事あるごとに「良心は神に勝る」と教え
人間の良心の大切さを誰よりも強調しているのだから
心の中を研ぎ済ませれば何も霊界に頼る必要はないはずである。


地上で神と直結した人間が霊界の霊人に地上の組織編成を
頼むなど呪術信仰が主だった古代ならまだしも
現代においては実に驚愕するような話だ。


しかもその霊人が決めたのだから
真の父母以上の権威を持っているということにもなる。
これでは信者は何が何だか分からなくなり
混沌としてしまうのも当然のことだ。


どう考えても背景に誰かの思惑があるのは明白なのだが
霊のお告げをその如くに受け入れ
誰も疑念を持たない体質も考えてみれば恐ろしい。


訓母がこの霊界メッセージに関与していないということを知った顕進氏が
驚きの余り気が動転するのも当然のことだろう。


「どうしてこうした霊界報告書で人民裁判をされるのですか・・・」

確かにまともな人間なら誰しもこのような思考になるはずである。


がそこは権威の前に絶対服従することが美徳であり信仰だと思っている
信者にとってはただ頭を下げて黙って頷くしかなかったのだろう。


郭先生もショックのあまり何も考えられなくなったという前に
「この霊界メッセージは間違っています」と一言いって欲しかった。


魑魅魍魎とした権力争いが運動の中心となって久しいが
よく考えてみれば一番の犠牲者は全てを神の為として
貧しくとも頑張ってきた無名の一人ひとりである貴方かも知れない


「私は50余年の間、何も言いませんでした。全て知りながらも黙っていました」
「神様を解怨して差し上げられる道は、私でなければならないと思いました。
ですから50年の間、耐えてきたのです。」


文師と結婚してからもずっと耐えてきたと言われる韓鶴子女史の
これらの言葉にこの事件の鍵が隠されているのは明白だ。
それはこの運動の中心は三男でも七男でもなく
自分でなければならないという独生女への強い意志が見えるからだ。


韓鶴子女史にもあのマザーテレサのような心の闇があったのだろう。
そしてその闇とは50余年もの間、ひたすら黙して耐え忍んできた
独生女論以外の何ものでもない。
文師の二転三転する後継者指名が仮に息子たちの誰かに決まってしまえば
じっと耐えてきた独生女の価値を世に宣布する機会を失ってしまうからだ。
それが証拠に文師亡き後、どこに行っても語るのは
自分こそがキリスト教が待ち望んできた、独り娘だ。
という言動がそれを裏付けている。


文師の強烈なカリスマ性によって統合されてきた運動が
その本体を失った後、三つに分裂した現状は
考えてみれば必然的な流れかもしれない。


歴史は事実の集積だと言うが、解釈によっては如何様にも取れる。
日韓の問題もそれぞれの見方が違うからいつまでたっても折り合わない。
同じようにみ言も各自の捉え方によって考えが異なるのは当たり前のこと。


大切なことはどこに所属するかと言うことよりも
誰が神の願いを実現して、誰が自分自身を指して
私が祝福によって救われ、解放された神の息子娘だと証明できるかであろう。
教祖の到達した霊性の高みに各自が至ることが出来なければ
いくら御託を並べても何の意味もない。


一人ひとりが三大祝福をただ言葉で唱えるのではなく
実体で示すという人生の目的は自分が出発点となって

「自分の中に生きる神を感じているのか。」
「その愛の偉大さに触れ、日々、感謝しているのか。」
「そしてその感動を家庭にコミュニティーに広めているのか。」

 み旨の原点はやはり脚下にある。


李ヨハネ先生が言われた如くに
「それぞれが実体で地上天国をつくる競争をすればいいのです。」
文師も「先生は全てを教えてやった。もう先生を探す必要はない。
自分の良心を神として生きよ」
と語っている。

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