神の眼差し その3

私は昔からコトバによる教条主義的な考えに与することに
違和感を覚えていました


それはクリスチャンがイエスを無原罪の人
神そのものだと信じることで満足してしまい
自分がそのようになれるとは考えていなかったからです


イエスが出会った神
文師が出会った神
それが自分にとってどのようにかかわってくるのかが一番の関心でした


シュタイナー或いは出口王仁三郎を研究したのも
目に見えない霊的実相界を聞くだけではなく
自分の体験を通して確認したかったからです


信仰の限界は自分と教祖は違うという一線を常に引く傾向があるのです
真理を認識し体験するのではなく信じて終わりになるので
偶像崇拝がいつまでも止まないのでしょう


神の実体化と言う人間の根源的な精神性を一人ひとりが成就できなければ
如何なる言葉を弄しようともそれはただのコトバで終わってしまいます


神も愛もそれがリアルになるためには
自分の中に引き下ろさない限り全ては見果てぬ夢なのです


英語でパーソン(person)とは人のことをいいますが
もともとの意味は「per sonat」
音が通り抜けることを意味するギリシャ悲劇に由来します


哲学者のハイデッガーは「パーソン」は物でもプロセスでもなく
「それを通じて絶対者が顕現することが出来る通路(場)である
という有名な格言に同調していました


またindividual(個人)とはdivide(分ける)ことが出来ない
全体のことをいうので不可分と訳していた時もあったようです


全体である神の神霊を自身のうちにどのようにして通路を作り
受け止めて行くのか初期の原理原本には通路が遮断された状態を
このように書いています


「堕落後、神はアダムの魂から霊人体を取り去った」

天使長は人間の魂に相対できる自身の霊的通路(血統的因縁)を造ったのでしょうが
通路に当たる血統的因縁とはエゴが発露する自己中心性を通して関与するというのです


即ち、通常、人間がエゴと呼んでいる心的部分に相対しながら
エゴを根拠に活動し本当の真我(神性)が働く余地が限られたことを
文師は神がアダムの霊人体を取り去ったと表現したのかも知れません


神との通路と天使長の通路の二つに相対する心的状態を
原理では矛盾性を内包した堕落した人間と表現しています


カインとアベルへの摂理は矛盾した天使の通路を分断して
神のみの一元に通じるための摂理だったとも考えられます


ではそれは今の私の中でどのように争っているのでしょうか?


自我を静かに見つめる眼差しに対して
対象と同一化しようとするエゴが私の中で争っていることに
気付くことが出来るでしょうか?


あなたの中になにかが、たった今それらすべての対象を見つめている
自然とその光景を見つめ、身体とその感覚を見つめ、
心とその思考を見つめている何かがあることが分かるでしょうか?



雲が流れ、思考が浮かび、身体感覚を感じ

そしてそのどれもあなたではないのです

あなたはそれをじっと見つめる広大な自由な広がり
あなたはこれら全ての物があなたの前に去来する場


その真っ白なキャンバスにあなたは憩うのです
純粋な空、純粋な自由、純粋な開放状態
あなたは見る者、これらすべてをじっと目撃するもの・・・


この見る眼差しに「私」が位置する時
自己中心性からではない何ものにも惑わされない静かな「私」を実感するようになるのです


それ以外の思考も身体も自然も全て対象化されるものは
天使長のエゴに同一化してしまう危険性があることに気が付くべきなのです


目撃者(神の眼差し)とはすべての目に見えるもの
浮かび上がる対象を常に見つめている絶対主体のことです
そしてそれが良心として作用する真の愛の根拠なのです


目撃者(神の眼差し)に憩うこと
神を着るとは非二元の絶対者の中にあること
それは一人ひとりの中にもともと永遠にあったものなのです


知情意はもともと神の中にあるのです
浮かび上がる思いは向こうから来ます
愛も同じように自分のものではなく向こうから来るのです


四大(地水火風)は向こう側にあって人間の身体を作り
重力(地)によって、液体(水)によって、空気(風)によって
そして太陽の熱(火)によって人間は生かされているのです


霊も同じように向こう側にあったものなのです
コトバ(知)は神と共にあり
愛(情)も生命(意志)も神と共にあったからです


その霊を受け止める「私」が主体となって見えない心情を
地上で実感し体験することによって霊の体が形成されます
その基本が家庭における四大心情圏の体恤なのではないのでしょうか


イエスは外典でこのように語っています


「私とは全てに輝く光である。私とは全てであり、全ては私から発出している。
すべては私によって獲得されている。木の中を見よ、そこに私はいる。
石を持ちあげて見なさい、そこに私はいる
」ナグ・ハマディ文書・トマスによる福音書


神の眼差し その2 - 恩寵と感性

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