相対が神の心情を復帰する

「堕落とは神を中心としてアダムとエバが一つにならなければならないのに
神の僕である天使長と一つになったことを言います。
神の血統(心情)を受け継がなければならない人間が僕の血統(心情)を受け継いだことです。…全てを自己中心にだけ連結させたのです」


「悪は私が主体になってみよう。私が中心になろうと言うところから出発しました」
「神の創造の原則は相手のために生きよということであり
私のために生きよと言うのはサタンの血です。
皆さんは善悪の起源をはっきり知らなければなりません」


「原罪を脱ぐとはどう言うことでしょうか。それはサタンの讒訴を受けない心情的血統の回復を意味します。最後の最後まで残るものがこれです」

こうした一連の文師のみ言葉の真意は血統転換とは
失った神の心情につながることを復帰と呼んでいます


原理講論の復帰原理も選ばれた人間たちがどのように神に対峙したのかという
心情のプロセスを明記しています


聖酒を飲み三日儀式を行うのはメシアの勝利した基台の上に
我々を象徴的に立たせてもらったと言うことでしょう


聖酒を飲んだから自動的に天国に行くと信じる人もいますが
心情が復帰されていない状態で天国に行ったらどうなるでしょうか?


あたかも言葉がわからない外国でみんなが楽しく話しているのに
一人だけコミュニケーションができないため
自分の居場所を見つけられず惨めになっているようなものです


では本来の復帰とはどうすればよいのでしょうか?


ここからは私の解釈です


堕落は相対関係を失ったことにあります
愛は相対関係の中にしか発現しないので
その相対関係が失われると愛が流れなくなるのです


愛も生命も神のものなのに堕落はそれを自分のものにしたことを
文師は自己中心性と呼びました


愛の本性は無限に与えることですが
愛にも様々な段階があります
それが四大心情圏です
それを三代にわたって完結することを
三大王権と呼んだのでしょうが
全ては四位基台の完成です


最初の子女の愛は完全に受ける愛です
子供は母親の愛を一方的に受けます
はた目には我儘で独占し奪っているように見えますが
それは愛の最初の萌芽であり
心情を少しずつ神様から引き継ぐ必要なプロセスなのです


子女の愛を十分に受けた子供は愛の交換ができる兄弟愛に成長していきます
相手のことを思いやる愛と自分の愛とがミックスした状態です


そして最も重要な段階の愛が男女の愛なのです
子女の愛、兄弟の愛の状態を超えて
相手に対する憧れである初愛の芽がでてくる時です
身も心も相手のことを中心に考える
愛の最終的心情圏に入ってくるのです


神は対象に全てを注ぎましたから
全ての情感は対象からしかやってきません
神が臨在する為の最後の心情の体験を引き継ぐまさに喜びと感動
天宙が祝福する愛の完成段階
それが相対としての男女です


父母の愛はその実りなのです


ところがその重要な時にアダムとエバは階段を踏み外し
それを原理は堕落といいました
即ち自己中心の愛のレベルで男女が結ばれたと言うことです


従って神の心情を復帰するためにはどんなに修行しても
一人では達成できないのです
宗教家がいかに努力しても乗り越えることができなかった愛と性の問題は
否定は出来たとしても実際の解決方法がわかりませんでした


文師の偉大さはアダムとエバの二人で堕落したと言うことに気がついたが故
復帰は二人でなければならないということでした


聖酒を飲み三日儀式を通して象徴的に文師の勝利圏に立った上で
祝福家庭が復帰しなければならないのは
本然のアダムとエバの愛の形です


その本然の愛の形を取り戻す内的準備が信仰生活における
為に生きることの実践なのでしょう
献身とは自分のエゴを捧げ神のみに生きることを意味します


しかしそこには当然、限界があります
何故なら実体的な愛の相手がいないからです


為に生きる訓練をした男女が相対を得て
その相対に対して初愛の心情が湧いて来ると
神が定着する日が近づいて来ていることに気がつきます


「その人の為に全てを捧げて愛を与えたいという心情を持ち
また相手も同じように自分の為に全てを捧げて愛を返してくれる時
自己中心の愛が溶けて本然の愛の海の中に
一体となって行く準備ができるのです」


重要なことは神の心情は肉体を通してしか復帰できないと言うことです
心は体の五感を通して感じるようになっています
喜怒哀楽も体を通して感じるものなのです
神はイメージや概念ではなく生きた心情です
それは体を通して感じるものなのです

「結婚とは神の愛が相対を通して自分の中に降りてくる瞬間なのです
主体と対象の関係の中に神様が定着すれば
喜びと感動が全身を震わせ神が電流の様に流れるようになっているのです」


血統の転換である神の心情の復帰は
男女を通してしか復帰することができないのです
だからイエスも一人では天国へは入れなく楽園にいるというのは
愛する相対を通した実体験が持てなかったからです


天国は霊人体が二性性相にならなければ入れないといいます
絶対性を通して得た一体感と安らぎ
安着した幸福感こそが全ての中心です
だからそれを経験したものは心に揺るぎない安らぎがあるのです


霊界はその愛の波動が完全に一致した状態で
霊人体が重なる世界のことです
だから重生なのです


神の心情は肉体を通した男女の内的心情によって決定されて行きます
完全投入(相手に対して完全なマイナスになること)この心情の条件に
サタンは入れません
愛による勝利者は一人ではなく二人なのです
だから私たちの神様なのです


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