文家の闇と光 その1 独り娘と言う悲しい響き

「何事のおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」

西行法師が伊勢神宮に参拝したときの歌ですが
自分が今生きているのはそれを育てた天的な存在があってのことだという意味です


西行の歌を詠んでいるうちに
思わず一句脳裏に浮かびました


侘しさや 証しをしない 独り子の


そういえばいつだったか徳野会長が日本で韓鶴子女史が講演する前に
文先生の証しを少しお願いしますと進言したら
韓鶴子女史は酷く気分を害し


そんなことを言うのなら、あなたがしたらいい」と言われたそうです
それ以降、徳野氏は文師に関することは一切言わないように
気を付けていると言うことですが、本当ならとんでもないことです


誰もが怪訝に思っていること


それは独生女の理論的裏付けをしたと言われる
天法苑長の金振春氏の論文のこじつけより
何故、あれだけの基盤と業績を残した文先生のことを
韓鶴子女史は語らないのでしょうか?


独り娘とは独り子があってのものなのに
独り子の話をする時はイエス様のことであって
文師に関することは殆ど聞きません


朝鮮戦争の戦禍の中で生き延び、獄中での酷い拷問に耐え
あらゆる迫害や弾圧をも乗り越えてきた苦難の生涯は
ひたすら人類を救うことと悲痛な神の心情を解放することでした


ところが国連軍の参戦によって奇蹟のように解放されたことも
それは韓鶴子女史の南下を助けるためだったと言い
全ての四大宗教もキリスト教の歴史も独生女である自分を迎える為だった
と語るだけで文師のことに関しては一切言及しないのです


神の摂理に関する聖書の奥義を解明し
聖書に新たな光あてた文師の業績に対して殆ど語らないので
幹部たちは其れは二人が一体化しているという
不思議な信仰観を持ちだして信徒を説得するのですが
そう言っていれば誰も疑念を持たないと本当に思っているのでしょうか?


摂理は失われた男女の復帰が中心であって
独り娘はその為のプロセスにしか過ぎません


本来なら韓鶴子女史はこのように語るべきなのです


「私はもう今では独りではありません。独り娘は終わったのです。
それは真の神の独り子である夫と独り娘である私が勝利的基準を立てたが故、
神が願った6000年の目的である真の父母の位置に立つことが出来たからです
そのような男性がいたことが人類歴史の奇跡であり
私はその恩恵を受けた最初の女性なのです


これが正しいメシア観であるべきでしょう


その意味では徳野会長の進言は正しかったのですが
韓国人も日本人も事大主義や「長い物には巻かれよ」といった
負の民族性が染みついているのか
毅然とした主体性のある意識をもって主張することさえできないのです


しかし考えれば考える程
これほど創始者のことを語らなくなった宗教も珍しいことです


韓鶴子女史が独り娘を宣言すればするほど
その響きの中に悲しさを感じるのは
本来、神の創造目的は理想家庭にあるからなのです


その家庭の重要な柱である夫のことも
また実の子供のことも語ることなく
ひたすら自分の栄光を強調しているのです


父母は子女あっての父母であり
バラバラになった子供たちを真剣になって振り返ることもなく
逆に裁判を起こして闘っているのですから話になりません


世界中でどれ程、宗教者を集めて講演会を開いたとしても
私の家庭を見て下さい」と言えない母とはなんたる欺瞞でしょうか


韓鶴子女史の生き方、ご自身の家族の在り方、言動、これらを通して
万人がその実績と実態を認める時に初めて真の母の位置が決定されるのではありませんか


アフリカの胡散臭い預言者の証言に踊らされて
自己の栄光を吹聴する姿はもはや残念と言うより哀れさを禁じ得ないのです
こんなウリナラファンタシーを見るためにこの運動があったとは
想像することさえできませんでした


私たちは神によって生かされているのです
その神を思えば涙が禁じ得ない情感の世界に入ったのは
文師のみならず幾多の宗教者も文人も同じなのです


神を見ずして人間を崇拝しイエスの時と同じような過ちを
信徒にこれ以上強要してはいけないのです


今一度、霊的感性が澄み切っていた
元の真の母のような状態に戻られる日が
一日も早く来ることを心から願うばかりです

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