万人のメシア運動

今朝方に強く雨が降りました
外に出ると蚊の大群です
湿気に力を得て繁殖中


熟れたマンゴーが木から落ちて
其の実を食べに数えたら十数羽の水鳥が
庭先で散らかしながら食べています


側に行ってみると
其の食べ残しのあらわになった実に
今度は無数の虫が群がり
この虫たちも人間がそばによると刺すのです


実りを迎えた樹木から落ちて
大地に帰っていき
其のおこぼれに群がる無数の生物が
こことばかりに群がっているのです


生命が生命を殺して食べる
この自然の連鎖は決して
甘ったるい天国願望だけが
地上の生態でないことだけは確かです


生と死
創造と破壊
共存と闘争


こうした二律背反の世界なのに


不思議です


人間の心は常にそれらを受け入れ
死や破壊そして闘争を超えた
愛と平和を求めるからです


病気や死は誰にでも起きます


それでも美しく明るく強く生きようとする
この人間の崇高な精神性は驚嘆すべきものです


迫害するものまで愛していこうとした
イエスの価値は単に家庭を作れなかったということだけでは
説明できない愛の完成度を示しています


どれだけ共生共栄の社会ができようと
肉体は病気や事故から逃れることはできません
それを先祖の因縁とか業と言ってきたのが宗教ですが
それらも過去のものとなりつつあります


万人のメシア運動


それは全てを受け入れ
許し
愛することです


昔 水沢里の修練会で一番後ろに座って文師の話を聞いていた
聖進氏がこう言っていました


ここに集うあなた方が本当の意味で救われ、神の愛を実感することが出来なければ
壇上で語っているあの方はメシアではなく、私の父親に過ぎません。万民を
救うことができなければメシアではないからです」


メシアとは一人の人間を崇拝し従うことではなく
愛の精神を持って万民に仕える人のことを言うのでしょう


文師もこういっています
私もメシアになろうとしています。同じようにあなた方もメシアになれるのです」


その意味では生物学的な血縁主義に神が働くのではなく
神の心情と共に生きたイエスのように神霊に繋がる
霊統主義こそが大切なのかも知れません
自分の名前で神に直接祈るとはどういう意味なのか?
改めて考えてみたいものです

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