霊的認識 真理に対する態度 

ガリレオは地動説を唱えた途端、カトリック教会から有罪判決を告げられ
異端審問で追及され、軟禁状態の中、困窮のうちに世を去りました
「それでも地球は廻っている」という有名な言葉を残して亡くなったガリレオに対して
裁判の見直しが始まったのは1992年、ヨハネ・パウロ二世の時です
法王はガリレオ裁判が誤りであったことを認め、ガリレオに謝罪したのですが
それは何と彼の死後350年後のことでした


特定の宗教に所属する人間の価値判断は
常に自分の信じる教義に適っているか否かが判断の基準となるようです
自分の信じている教義に反することに関しては極度に警戒心を抱き
時に敵対心さえ抱くようになるからです


原理講論の総序には真理は科学的にも理解されなければならないとあり
又、これは真理の一部だと記載されているにも拘らず
一旦信じると多くは客観的に見つめることが出来なくなり
思考を信仰に変えてしまうと真偽の検証さえ出来なくなってしまうようです


例えば堕落論における天使の存在や人類始祖のアダムとイブも
科学的にも生物学的にも何も実証されていません
無形存在である天使がどのようにして実体存在の人間を養育したのか?
少し考えれば論理的には理解できないことなのですが
理解できないことに対しては不問に伏せて
論理の不確実性は上記のカトリックのように信仰で覆ってしまうのです


堕落論は正しくは科学的実証ではなく
あくまでも形而上学上の神話の解釈として理解すべきなのです
立証不可能な人知を超えたことに対して
哲学者のヴィトゲンシュタインも仏陀も沈黙を選びました


だからと言って真理追及をやめたと言うことではなく
知的認識には限界があることを指摘しているのです


知的限界を超えるために求道者は自分自身の内面を観察しながら
全体との合一を得るために一種の「気づきの行」を日々の日課として行います


例えばこうです


空気は外側にあります
しかし空気は呼吸を通して体内に出入りします
空気が無ければ誰もが瞬時に死んでしまうので
空気は私の存在の一部ともいえます
奇異に思われるかもしれませんが
求道者の内的な行では自分が空気になってみるのです


水も外部にありますが人体の中にもあります
外に流れる水は体の中にある水分と同質です
水も私の存在の一部なのです
自分が水のようになってみるのです


古今東西の賢者や聖人は知的認識だけではなく
行としての直感や霊的認識の重要性を教えてきました
それは部分と全体は分離されたものではなく一体であることを
悟らせたかったからでしょう


同じように神(愛)が私の外にいると同時に
私の内にもいるという存在の不二一元性に気が付くことなのです


内的宇宙と外的宇宙、ミクロとマクロ、無形実体と有形実体は
分離しているのではなく不二一体だと言うことです


見えない概念としてのコトバと実体との関係を
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
この言は初めに神と共にあった。全てもの
は、これによってできた」
ヨハネ福音書の冒頭の聖句は文字通りの意味なのです


分かりやすく言えば光を煌々と発する物質としての太陽は
無形実体としての「光あれ」と言うコトバ(情報)の霊的波動が
凝縮して物質化したと捉えるのです
まさに量子力学そのものです


言霊の波動が凝縮してコトバ・即・実存として実体化するプロセスは
音楽に例えれば無形の波動である旋律を
形ある楽器を通して聞くようなものです
ピアノの鍵盤に音があるのか或いは人間の耳があるから
音があるのかという二元論ではなく


音・即・実存


音という波動の動きに照応する耳や楽器を一体と見るのです
この一元論に立脚すると


鉱物は見えないエネルギーが形を持ったもの
植物は生命のかたちが現れたもの
動物は生命に欲望のかたちが現れたものとなります


エネルギーも生命も欲望も抽象概念としての
一元的無形実体から流出して来たと言うことです


話を元に戻せば、知的な概念や論理では
無形なる実相界を本当の意味で体験することは出来ません
コトバの背後の霊性認識は言葉を超えた直接体験を含むからです


これからの世代はこうした霊的要素を実感として捉えることが出来る
新たな人間が登場して来ることでしょう
霊界と現実界は二つではなく一体のものだと言う時代圏に漸く入ってきたからです


真理の探究は知だけの論議を超えて
今や霊的認識への階段を上がり始めています
霊と肉が一体であるように論理の実証性も
二元論を超えた一元論の体験が必要となってきているのです

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