今は超宗教の時代です

キリスト教は神の存在を問いますが
仏教は私とは誰か?と問うことから始めます


統一原理に授受作用という教義があります
同じように仏教にも縁起の思想があり
特に唯識論哲学では存在の関係性を詳細に分析しています


内的世界の罪や煩悩に関しても
原理では無形実体としての天使が介在する霊的な話となるのですが
仏教では客観的に実証できない霊的存在との関係を論ずることより
内的事実としての煩悩を如何にしたら克服できるかと言う
具体的な実践を重視します


「エバは天使と血縁関係を結んだとき、偶発的に生じた全ての性稟が
人間の全ての堕落性を誘発する根本的な性稟となってしまった。これを堕落性本性という」
と指摘しても肝心の天使そのもの実態の詳細は明かにされていません。


仏陀はこう説きます「或る時、人が毒矢に射られたとする。
ところが、もしその人が、駆け付けてくれた医者に対して、
この矢を射たのは一体誰であるのか。弓はどのようなものであるのか。
弦は何で出来ているのか。毒矢が刺さっている時に、毒矢の原因を論議するより、まず毒矢を取るだろう」


一般的にキリスト教の流れを汲む統一思想は
神や天使の存在に対してはデカルト的な二元論的思考で説明しようとします


対して仏教を始めとする東洋思想は
神と私という二元論を一元的に捉える心的状態に重きを置きます


神(主体)と人間(対象)の根源的統一を回復する意味での
「神の宮」という表現は禅に於ける行でいえば
主客無分別の絶対的な統一体を体験的に知る「心身脱落」の境地に近いと
感じています


訓読会を通して文師のみ言を熟読することも大切でしょうが
同時に仏典にも、あるいはインドやイスラムの哲学にも宇宙の真理が
述べられていることに気が付けば、自分たちの教えに全てを統一させようとする考えから他宗教を受容し統合するという考え方の重要性が解るのではないのでしょうか


宗教の問題点は自分たちの教えを絶対化するので往々にして
他の教義や教典に対して距離を置く宗教的傲慢さが出てきます


「わが(精神的)祖、仏陀(絶対者)とは誰なのか知りたいか?
それは、私の講話を今ここで聴いているお前たち自身に他ならない!」

臨済


「お前たちが特別に行うことは、宗教のリアリティーにおいては何もないことを知らなければならない。何か特別なことをしようとしないで、ただ普通に生きるだけだ。自分の自然な欲求に気を配り、服を着、食べ、疲れたら横になるのだ。無知のものには笑わせておけ。
賢者は、私の言いたいことが分かっている。」

臨済


心身脱落して絶対的なリアリティーの次元からこの現象世界に戻ってくると
日常生活の一つ一つが大切であり、その中で自分が一つの統一体を成していることに
気が付きます


統一思想は主体と対象の機能的な関係に関して、常に「神を中心として」となり
東洋的思想は主体と対象の関係を「私が神の立場に立つ」という私を先に定立します


主体と対象、見るものとみられるもの、陽と陰、絶対と相対、空と色、永遠と時間


文師は何度も「神を着る」と言う表現をしました
それは「Meという着物を脱ぐ」ことを言うのでしょう


ではMeと言う衣を脱ぐとはどういうことなのでしょうか?


例えばそれは祈りと瞑想の違いにも表れます
祈りは絶え間ない神との対話だと言いますが
禅師に言わせれば絶え間ないおしゃべりだと言うのです


座禅や瞑想はコトバの無い純粋な受け身状態に心を置くことです
身体の生命力を感じ、血管の脈動を感じ、空気が呼気を通して体内に
充満する気を感じる状態に入ることです


おしゃべりで忙しいMeを見つめ、在るがまま、
今に現前する覚醒した意識の状態に気が付いていること
心臓を動かし、血管の流れや無意識に動いているそれらに気が付くとき
生かしている主体が誰なのか、換言すれば心臓の鼓動に気が付くことは
その心臓を動かしている未知なる主体に気が付くこと
これが「Meと言う着物を脱ぐ」ことなのです


そしてここが面白いところで、それはどこにもなく(no-where)場所も、
掴むことさえ出来ないと言うのです。即ち無であり空だと言うことです
だから全ては今ここ(now-here)にあると言うことになるのです


過剰で飽食な現代は絶え間なくおしゃべりをしている心の世界と似ています


手の込んだ食事、おいしいワイン、快適な環境は蒼空に現れた複雑に変化する雲のようなものです。雲の背後にある蒼空は誰が付けたか分かりませんが「空」と言う漢字で表します
全ては何もない無形の空のフィールドから現れるのが思いであり情なのです


過剰な思考の世界からたまには飛翔して
通常見落としている観る感覚に浸ることが
逆にどれ程喜びと安らぎを齎してくれるのかを是非
味わってもらいたいものです


「雲の背景にある感覚、生きていると言う身体感覚、今ここにある、存在している
シンプルな感覚。それはいつもそこに在る。しかしたいていの人はそこに気が付かない」


「心身脱落」とは


「呼吸を観たり身体の感覚を観たりすることで、思いと言う雲を手放し、蒼空の中に入って行くことが出来ます。これは理論ではなく、実際のことです。蒼空に入った時、立つ場所が違っています。今までは雲の中に立っていたのが、その雲が手放された時には、蒼空が立っている。蒼空に立った時にのみ、全ての雲に対する非常に強い慈悲の力(愛)を感じるのです」
内山老師


超宗教の時代が始まっています

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