エロチシズムについて

晩年の文師は人間の愛と性について集中的に語りました
本然の人間の愛と性に対しての在り方を最後に
伝えようと思ったのでしょう


人間の堕落に関して啓示された内容は
善悪を知る木はエバの愛を象徴すると言うことでした


しかし善と悪を知的に知ると言う文字通りの意味から捉えてみると
これは人間の自意識に関係しているのだと言うことが分かります


堕落論はあくまでも啓示された内容として
人間の不倫なる性行為が原因となったとしていますが
堕落の動機に関しては自己中心性と言う
人間の意識の問題を語っています


人間と動物の違いは
動物は本能に無意識に従っているのですが
人間は「私」と言う意識存在なのです


本能に従う生への欲求は
食べることにおいても繁殖することにおいても
そこには善悪と言う価値判断を伴う意識活動はありません
これを私は無意識の衝動と呼んでいます


肉体は殆どが無意識状態ですから
例えば呼吸から始まり
各臓器や血管の動き細胞分裂に至るまで
それらの活動の殆どは無意識に動きます


肉体だけを見れば
鉱物が基本となって
植物的な循環機能
動物的な本能によって構成されています


従って死ねば元素である鉱物に分解されます


では神は人間に何故
自意識を与えたのでしょうか
聖書を人間の意識の発達と言う観点から見れば
神が人間に与えた戒めの意味は人間だけが持つ
「私」と言う自意識が肉体における本能と
どのような関わり方をしなければならなかったか
と言うことが見えてきます


神が与えた「とって食べるな」と言う強い禁止の言葉は
動物のように無意識の本能だけの在り方ではなく
肉体と言う無意識を意識化させることによって
主管性の根拠を確立することにあったのです


最も強い生命保存本能である性への欲求に対して
自意識で主管できるまでの期間のことです


生命の保存への欲求は強烈な力を持っています
ギリシア時代は其の力をエロスと呼びました
エロスは受動的な働きとして
自然からの本能として与えられたものです


其のエロスの生命本能に対して
エロチシズムとはそこに人間の意識が介在することを言います
自意識によるエロチシズムは時に
死を超えても高揚する生への衝動なのです


その意味ではタマルもマリアも
エロスの本能的な衝動ではなく
血統を残すと言う高揚した神への意識化された
エロチシズム的行為だったと言えます


人間は意識を持つことによって
初めて自己存在を能動的に始めます


無意識的本能の働きから
性を意識的働きに変化させようとしたのが
神の「戒め」の意味でした


この「私」と言う自意識も
肉体を土台としているが故に
成長の段階を踏まえなければなりません


それを文師は四大心情圏と言ったのです


子女の愛を受ける子供の時
人間の自意識はまだ自己中心なのです
肉体を中心としているので
おなかがすけば泣き叫ぶのです


兄弟の愛の段階に至って初めて
自分と他者との関係の存在に目覚めます
自分だけでなく他者との関係の中で自意識が成長するのです


そして肉体の無意識に根差す
性本能と直面する時期が思春期なのです


この時を知っていた神は人間に「戒め」を与えたのです


それは自意識が他者に転換される意識完成の段階のことを指し
自分以上に大切に思う他者存在へ意識を
発展させることができるかどうかと言うことでした


男女の愛は生命と血統に連結されるので
神の創造理想である真の愛が伝授されなければなりません
肉体の持つエロスの感覚を
「私」の主管の下で愛を完成しなければならなかったのです


神の愛は完全投入だと文師は言います
対象に対する100%の投入愛を実践する相手が
アダムとエバでした


その愛によって自他一体
相即相入できた境地こそが
神の臨在する初愛の瞬間となるはずでした


その神の人間に対する決意を
絶対信仰
絶対愛
絶対服従だと言ったのです


「私」と「あなたが」融合する時
「神」が「私たち」の中で出会うのです


エロチシズムは忌むべきことではなく
美しい人間の在り方を肉体を通して
体験できる神の愛の衝動なのです

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